アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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デュラス『ヴィオルヌの犯罪』 アリアドネ・アーカイブスより

デュラス『ヴィオルヌの犯罪』 アリアドネアーカイブスより
2012-12-19 21:42:35
テーマ:文学と思想

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・ この作品はデュラスの作品からは少し違うのではないか、と云う気がする。この作品は理解できない。理解できないと云う意味は、マルグリット・デュラスが十年に渡って幾度となく挑むように、この犯罪事件を元にその劇化と小説化に拘った事実である。

 物語と云うのはほかでもない。ある年、フランス各地でバラバラ死体が発見される。頭部だけを残して発見された遺体を復元すると、どうやら同一人物であるらしいことが分かる。しかも調査が進展すると、そのバラバラ死体はある駅の陸橋から投下されたらしいことが分かる。その場所こそ、ヴィオルヌであったと云うのである。後に犯人の陳述からも分かるように、ヴィオルヌが鉄道網の要衝であることに気づかなかった、と云う迂闊さがあるのだが。

 犯人が迂闊であろうと思慮分別に富まない人物であろうとこの小説の場合は構わない。物語が始まって直ぐに、聴きこむために張り込んでいる刑事にあっけなく犯人は自白してしまうからである。自白する理由も、彼女の夫が張り込みの刑事の誘導質問に吊られて、犯行は森の中で行われたと思うと推測を述べた途端に、妻は自分が地下室で殺害したことを告白してしまうからである。

 この小説は三部に分かれていて、なぜ彼女が二十年近くも同居していた家事手伝いの従妹を殺害して、その遺体をバラバラにしたかと云う疑問を中心に、三人の人物へのインタヴューから成り立っている。
 第一部は、加害者の夫妻が贔屓にしていたカフェの主人へのインタヴィユーである。第二部は夫、第三部はいよいよ犯人である妻に対して。

 この三者三様の質疑応答を経て事件は色々な方向から光が投げかけられるが、何故従姉妹を殺害したのか、それから何ゆえ頭部のみが発見されないのかと云う謎は解けない。
 インタヴューの中から、冷え切った夫婦関係が明らかにされる。また殺害された従妹が100キロを超える巨漢であり、事実上家計を支配していたことも明らかになる。また彼女の行きづりの男たちと結んだ多様な性的関係も。多淫さだけではなく、従妹の旺盛な生活欲と食欲も語られる。
 他方では、妻の昔の恋愛体験も語られる。生まれ故郷の町で牛乳屋に勤めていた彼女と若い警察官の間に起きた恋愛事件、男は既に家庭生活のようなものをしている妻がいたが彼女と別れてでも一緒になろうとしたが、二人の恋愛も長続きせず二年間で終わってしまったこと。それから今の夫との間に愛のない夫婦関係を受け入れる様になったことなど。

 やがて変調をきたした妻は家事やその他の家庭生活に伴う日常茶飯事が出来なくなる。それを境に夫は家事手伝いとして郷里から聾の従妹を呼び入れる。こうして奇妙な三人三様の家庭生活が始まる。そして三十年近くも経ったある日、それは劇的な猟奇的殺人事件として収束する。

 なぜ妻は従妹を殺害しなければならなかったのか。数十年に渡る愛なき日々に終止符を打ちたいと云う潜在的な願いがあったのは事実だろう。しかし人は潜在的な願いだけで殺人を犯したりはしない。彼女には、ラスコリ―コフのように殺人を正当化する形而上学的な知性もあるわけではない。かっての狂おしいほどの愛を再現するにしても歳を取り過ぎてしまっている。理由を決して明かさないまま小説は終わる。
 デュラスはこの事件に十年も関わり続けて、実際はこの事件が彼女の意に添うようなものではないと云う失望があったかのようである。

”――だとすると、わたしは気違いだというわけなんですね?わたしは気違いなんですかと、お尋ねしたら、あなたはどう答えられます?
――やはり、そうでしょうと答えます。
――それなら、あなたは狂人としゃべっているんですね?
――そうです。”(p224)

”――あなたに打ちあけなかったいろんなことがあるのです。どんなことだか知りたいと思いませんか?
――思いません。
――じゃ仕方ないわ。

 頭がどこにあるかを言っても、まだ話を続けられますか?
――いいえ。

――なんだかがっかりなすったみたいですわね。
――ええ。”(p226)

 私は『モデラート・カンタービレ』以降の愛と死による殺人、受難パッションと剽窃の関係について思う。ヴィオルヌの妻もまたアンヌ・デバレードの精神的な系譜に位置する女性であることは明らかだろう。しかし彼女には、アンヌ・デバレードらデュラスの愛の殉教者たちが、殉教と剽窃の間で引き裂かれるように死んでいくか、あるいは廃人のように虚しく余生を送ったのとは裏腹に、愛の剽窃、つまり偽物じみた言動だけが目立ってしまう。
 この小説には、『モデラート・・・』や『ロル・V・シュタイン』・『インディアソング』のような愛の殉教劇に伴う崇高さと、その理念がこの世的現象形態をとる場合の剽窃の関係、そのイカサマじみた苦さだけがある。狂気は、時にデュラスの登場人物たちに崇高さの理念を与えはするが、ここには狂気だけが残されている。

 見出されなかった切り取られた首は何処にあるか?
 たぶん、井戸の底だろうと思う。