アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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デュラス『アンデスマ氏の午後』・上 その能楽的構成 アリアドネ・アーカイブスより

デュラス『アンデスマ氏の午後』・上 その能楽的構成 アリアドネアーカイブスより
2012-12-21 09:05:08
テーマ:文学と思想

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・ さて、『アンデスマ氏の午後』ですが、この作品は従来のデュラス論でもあまり触れられていようですね。この作品が発表されたのは1962年、この前後には1958年の問題作『モデラーカンタービレ』と1964年の問題作『ロル・V・シュタインの歓喜』があります。この二つの大きな峰に挟まれた『アンデスマ氏の午後』が重要でないわけがありません。

 さてこの小説は、アンデスマ氏と云う裕福であるけれども死期を迎えた老人の、ある六月のある日の白日夢のような、よくわからないお話です。アンデスマ氏について分かることは、お金持ちであることと、彼には高齢で得たヴァレリーと云う溺愛する娘がいて、彼女が望むままにこの小説の舞台となる、遥か町と海を見下ろす別荘地も買って挙げたと云うことでしょうか。そして今日の午後彼は、彼女の望みをかなえるべく海側にテラスを建てるために出入りの不動産業者兼建築業者を待っているところです。物語の設定は食後の午後2時ころから夕闇が迫る6時ころまでの間でしょうか。ヨーロッパには梅雨がなく、光り輝く六月が一年中で最も素晴らしい季節であることは理解しておく必要があるでしょう。日本で云えばその春麗の、そして同時に初夏の眠たくなるような長閑な別荘の風景の中で、デュラスの最も怖ろしい物語は始まるのです。怖ろしいと言っても、実際には何も起きなかったのかも知れないのです。何せ語り手は、高齢で椅子に座ったまま体も動かせないような老人で、日差しを浴びた別荘のテラスで幾度か眠りこみ、現実と夢との間を彷徨う、死期を間近に控えた老人なのですから。

 物語は、能楽を思わせる簡潔な二部から構成されています。
 第一部は赤毛の犬と、打ち合わせの時間になっても現れない不動産業者の娘です。娘は言います、ある事情で父は遅れているが間もなく来るであろう、と。言い忘れていましたが、『アンデスマ氏の午後』は、何時まで待っても打ち合わせの場所に現れない不動産業者の男を待つ話なのです。

 アンデスマ氏は犬が彼に関心を示した時は億劫で対応できない。考え直して犬に関心を向けた時は犬の方がそうでも無くて、向こうのほう、つまり森と池がある方向に行ってしまう。その犬に新鮮な水を与えるべきであったと彼はしきりと悔やむ。あの犬はきっと池の澱んだ水を飲むだろうと想像する。しかし何故か、その綺麗でもない山間の池を娘ヴァレリーの望みで購入することになるだろうとアンデスマ氏は考えている。

 次に現れるのは、先述の、父親の延着を告げる娘である。後の記述では母親の口から、変わった娘であると言われている。しかし美貌であるのかもしれない。なぜなら彼女からアンデスマ氏は、自分の娘の豊かなブロンドの髪の棚引きを思い起こすのであるから。纏いつくようなヴァレリーのブロンドは第二部で重要な隠喩的な役割を果たすことになる。なぜなら読者は決して現実にヴァレリーの顔を見ることはないからである。
 ここから椅子に座ったまま動けないアンデスマ氏と娘との手持無沙汰の断片的な会話と意味のわからない所作が繰り返される。アンデスマ氏は歓心を買うために娘に100フラン硬貨を与えるが、気もなく指先で弄んでいるうちに砂場に打ち捨ててしまう。あるいはうっかりして失くしたのか。アンデスマ氏は淋しいので娘に行って欲しくないと思っているのだが、娘は退屈して森と池の方角へ行ってしまう。その後、アンデスマ氏はあれこれ池で遊んでいる娘のことなど取りとめなく想像しながら、何時の間にか寝てしまう。
 娘は程なく父親は来るだろうと言ったのだが、その「程なく」をもう随分過ぎている。ここまでが第一部である。登場人物は赤毛の犬と来る筈の不動産業者の娘である。先回りして言えば、さんざん話題になっているその不動産の男と、ヴァレリーはこの小説を読み終わった段階においてもついに姿を現すことはない。

 第二部は、アンデスマ氏が眠っている間に娘の母親が現れる。勿論この小説のメイン動機である来るかこないか解らない男の妻である。
 おそらく、この妻と称する女とのやり取りを描いた場面は、デュラスの文学の中で最も優れた場面ではないかと、密かに思う。
 この小説は、六月のある日の午後の老人の手持無沙汰とも云えるやり取りを、第一に犬との出会いの中で、第二に娘との出会いの中で、そして最後はその母親との出会いの中で、同心円を描くように拡大しながら繰り返すと云う音楽のような舞曲のような構造を持っている。実際に全編を通じて麓の町の広場で繰り広げられる舞踏の輪と音楽が風に乗ってアンデスマ氏の処まで運ばれてくる。断片的な噛み合わない二人の会話と、近づいたり遠ざかったりする女の所作を通じて、この長い一日の午後二終わりに明らかにされるのは何だろうか。
 それにしてもいわくありげな邸宅である。居住者は、長続きせずに何回か代わっていると云う。

 第二部の後半で、いよいよ「狂気」が姿を現す。
 不動産業者の延着を述べるだけの話題がいつの間にか、アンデスマ氏と娘がこの街に引っ越してきた当日の話題がその妻によって語られる。
 執拗に、町の広場に早目に到着した引っ越し用の車と、広場を横切ったヴァレリーの姿が語られる。纏いつくような金髪を靡かせて広場を横切った都会風の娘とそれを目撃した男たちの視線が語られる。田舎町に話題と云えばそれだけのものでしかないのだが、幾度も同一のシーンが執拗に語られるうちに、物語の異常さが浮かび上がって来る。
 彼女は、もしかして気が狂っているのではないのか。アンデスマ氏に、これ以上ないと思われるほどまでにその妻は、ある時は表情を間近に寄せて来る。風にたなびく彼女の髪の毛が咽る様にアンデスマ氏に纏いつく。纏いつく髪の毛はオフィーリアの比喩のように、纏いつく海藻のようにラファエル前派的な官能性を秘めている。纏いつくまみの毛は、あの日女によって語られる広場を横切ったヴァレリーの、豊かなブロンドの艶めかしく輝かしい髪の毛をも連想させて後半部分で大きな意味を持つ。

 夕闇が迫るころ、待つことにくたびれ果てたのかアンデスマ氏はもはや関心を放棄する。二人の会話から想像すると、どうやら待たれている不動産の男とヴァレリーを乗せた車は別荘に近づきつつある模様である。幾度となく森の曲がりくねった道を照らす車のライトが点滅したかのようでもある。近づきつつある二人の話声を聞いたようでもある。しかし老人の幻聴であるかも知れず、ましてはアンデスマ氏が応対している女性は狂人かも知れないのである。彼女が狂人である可能性は、この小説では禁句のように一度も語られることはない。
 そこまで洞察しないと、この小説は味わえない。
 その女が、アンデスマ氏の「わたしはもう何も聞きませんぞ」と云う制止にもかかわらず、何事かを語り続けるところでこの小説は終わっている。
 しかも、いまにも表れそうな、さんざん待たされた挙句の不動産管理の男と、老人を迎えに来るはずの娘ヴァレリーの生々しい臨在感を間近に予感するところでこの小説は、結末を語り忘れて突然終わる。

 能楽の基本構成は、前半と後半の二部構成である。行きづりの僧がいわくありげな地の者に語りかける。その謎めいた邂逅は、後半に於いて霊的な正体を現す、と云うのが能の、とりわけ修羅能と呼ばれる分野の基本である。
 この小説も二部構成で、アンデスマ氏をめぐる犬や人物との無意味とも云える弛緩したやり取りを二部構成で幾度も繰り返す。不気味なのは人が代替わりすると云う別荘の存在であり、決まってこの小説の主要登場人物(赤毛の犬も登場人物と考えてだが)が最後には姿を消す森と薄明に照らされた池の存在であり、「水」の連想からは海が見えるところにどうやらテラスの造成が計画されており、その造作をめぐって建設工事の中心人物である不動産管理の男の到着を待ち続ける、と云う構成でこの小説が成立していることである。
 待てども来たらない男とは誰なのか?一方ではハンドルを手に森の曲がりくねった林道をヘッドライトで時折照らしながら今にも着きそうな、あるいは着いていて森の木陰から二人を観察しているかもしれない、声だけを響かせる不気味な存在、確実に到着が待たれる男とは?そして同乗しているらしいアンデスマ氏の娘の存在とは?
 ヴァレリーは男の存在を知っていて、今日の段取りもまた彼女を通じてアンデスマ氏には齎された情報であるかのようである。だから彼は一切の情報が断たれたところで只管待ち続けるほかはないのである。あてにもならない男の娘や妻と無駄話をしながら・・・。
 まさにあらゆる自主的な行動が禁じられ、唯一のコミュニケーションの手段があてにならない言語と云う、しかも狂女と少し変わった娘を相手に破局までの時間に堪えなければならないと云う、まさにフランツ・カフカ的世界である。