アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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デュラス『アンデスマ氏の午後』・下 恣意的な謎とき アリアドネ・アーカイブスより

デュラス『アンデスマ氏の午後』・下 恣意的な謎とき アリアドネアーカイブスより
2012-12-21 11:30:01
テーマ:文学と思想

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・ 本を読み終って目を閉じると、夕闇せまる日暮れ近くの人気のない森に面した別荘の庭で演じられたアンデスマ氏と待たれている男の妻との演技は、あとシテの夢幻能の舞のように幻想的で、また美しく切ない。美しく、息が詰まるほど官能的で生々しい。物語全体が死期を間近に控えた老人の性の焔に照らし出された薪能のようにも思われる。
 とはいえ、一切は、春の日の麗らかな午後、老人のまどろみの中に見た幻想であるのかもしれない知れない、と言ってしまってもよいのである。

 しかし一読後の与えるこの小説の印象の不気味さは、そうした老人文学では納得いかないものを感じるのである。

 男の妻は、もしかして気が狂っているのではないのか、と云う私の想像すら、もしデュラスが聞いたら突拍子もないことと、一笑に付されるかもしれないのだ。それほど根拠のないことなのだ。しかし、なぜ第一部で前シテのように出て来る娘は、多少正常でないように描かれているのか。なぜ、そうした娘の伝聞が作者によって読者に提供されるのであるか。
 子供らいいところがなく、がらんどうのような娘のまなこは人形のようにとても不気味である。無邪気さの中に、埴輪のような空虚さと非情さとが同居している。

 私の想像を端的に言おう。――
 不動産業者の妻は、嫉妬に狂う母親ではないのか。彼女の夫はあの、ヴァレリーが町に到着して広場を通り過ぎた日に、棚引くブロンドに纏いつかれるようにして心を奪いさられたのではなかったか。有名な『ロル・V・シュタインの歓喜』のあの神話的な場面ように。
 もしかして、二人は死んでいるのではないのか。だから待っても永遠に到着しないのではないのか。二人の殺害が行われた現場は森の中に潜むあの池だったろうと思う。ヴァレリーが幾度となく池の取得を希望し、執拗に拘ったことを私たち読者はアンデスマ氏の口から聞き及んでいる。小暗く光る池の水面は、もう一つヴァレリーが拘った「海が見えるテラス」に繋がる。この海の見えるテラスの建設を通じてこの小説の登場人物たちはすべて繋がった筈である。「海」とはデュラスの場合、「森」とともに、死の象徴な場面なのである。
 なせ私がこのような妄想に囚われるかと云うと、デュラスの初期の作品に『工事現場』と云う中編小説があって、これは「墓地」と云う名の「工事現場」の前で出会った男女の、心中を暗示させる内容の不気味なお話しが過去にあるからである。勿論、『工事現場』が発展したものが問題作『モデラート・カンタービレ』である。死を願うほどの狂おしい愛を描いた小説であることは知られている。

 第二の想像はこうである、想像というよりか妄想と云うべきか。――
 能ではあとシテと呼ばれる人物は、実は死者の亡霊である。『アンデスマ氏の午後』のあとシテとして登場する、待ち人来たらずの感がある男の妻はアンデスマ氏のまどろみの中に登場する。つまり白日夢の中に現れた亡霊ではないのか、と思うのである。
 『モデラート・・・』や『ロル・V・・・』のように、完璧な瞬間をまるで「絵画」のように見せつけられた人間は、恋の対象を奪われたという衝撃よりも、その超越的な経験の激しさに於いて、ロルのように、あるいは『インディアソング』のガンジスの女のように、死に場所を求めてさまようほかはないのではないのか。破壊の衝撃は『ロル・v・・・』のように受難と聖性の中に実現を待望する道を閉ざされた場合は、『ヴィオルヌの犯罪』のように自らを抹殺するために犯罪を呼び込むほかはないのではないのか。
 そうすると、潜在的に死者は三人と云うことになる。

 これは過去の風景なのか。過去の殺害現場の再現なのか。あるいは予兆として存在する生まれつつある「事件」なのであるか。殺されたのは男とヴァレリー、その現場は池のほとり、殺害者は妻。あるいは反対の場合、妻は潜在的な殺意を抱いたままで絶望感の中で死んでいる。自ら殺意を抱いている二人を見るために、亡霊となって出現しているののか。
 妻の抱いた殺意が、潜在的なものでるか、実施に成された行為であるのかはこの場合、本質的な問題ではない。
 妻だけが死んだのか、それとも死んだのは二人か、それとも三人とも死んでいるのか。あるいは全てアンデスマ氏の妄想なのか。それとも妻だけが狂っているのか。アンデスマ氏と云う有閑の老人が暇を持て余して聴いた女の長話、女の妄想、あるいは何もかも全てが妄想で、結局何事も起こらない春の日の長閑な午後があった、と云うだけなのか。
 アンデスマ氏は転寝から覚め、迎えに来た娘に、誰も来なかったよ、と云う。

 能のような厳密な構成を持ち、夢幻能のようでもあり老人の白日夢のようでもある、そして微かに犯罪と血んも匂いを感じさせる多様な読みを可能にするこの小説は、デュラスの文学中で最も不気味さの際立った作品であると言ってよい。それも春の日の、これ以上ない六月の長閑な、居眠りしたくなるような森の灌木と木漏れ日の中で演じられた、一幕の能と云うか、犯罪、そして狂気の物語・・・・・。