アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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殉教と剽窃の間 あるデュラス論 アリアドネ・アーカイブスより

殉教と剽窃の間 あるデュラス論 アリアドネアーカイブスより
2012-12-22 12:02:18
テーマ:文学と思想

「アンヌ・デバレードというのは、突如として別のものを感じ、見てしまうブルジョワジーの女性です。厳密にいえばとうてい生きてはゆけない社会環境の中で、彼女はパッション熱情-殉教の剽窃を通して死ぬことになるのです。」(M・D インタヴュー「ル・モンド」)

 上記はデュラスの自作『モデラート・カンタービレ』についての発言ですが、デュラスの作品群の星座的座標軸における配置が、「殉教」と「剽窃」の間にあった、と云うことが余り認知されていない、と云う気が致します。今日に於いてもなお、デュラスの文学を愛の超越性であるとか、彼岸と此岸性の問題で、何か愛の不条理の問題が心理主義的にあるいは因果関係で解けるかのような過程で語られる文学論をしばしば瞥見することがあり、意外の感に打たれることがあるからです。マルグリット・デュラスの文学は依然として愛についての語り、恋愛小説として読まれている。デュラスは愛についてどのように語ったか。

 有名な、誰もが各々のデュラス論の中で引用する次の言葉、――

”いかなる恋愛も、愛に代わることはできない”
(『タルキニアの子馬』P225)

 「愛」を如何に定義し、「恋愛」を如何に解釈するかで恣意的な言葉の定義は水かけ論に終わるだろう。しかし、果たしてこのデュラスの言説は、通常理解されているように、究極の愛は個々の恋愛が不可避的に持つ世俗的形態の彼岸にある、と云う意味だけに解して良いのだろうか。
 むしろ、自分の文学作品が、通常の恋愛小説のように読まれていることへの抗議、と云う気持ちが働いているのではないのか。
 彼女は明瞭に、『モデラート・カンタービレ』がいわゆる恋愛小説ではないことを述べている。
 この間の経緯を伝える貴重な文章があるので紹介する。

”(『タルキニアの子馬』の)第三章の終りに出て来るジャックの台詞「この世の中のどんな恋愛も、愛の代わりをつとめることはできないんだ」は、デュラス論のキー・ワードとしてよく引用される言葉であり、私も再三言及したことがあるが、その都度、この<恋愛>と<愛>の関係がよくわからないという質問を受けたので、その点を説明しておく。原文はこうである――Aycun amour au monde ne peuttenir lieu de lkannma l`amour. 不定形容詞と定冠詞のついた同一語「アムール」の訳しわけにはほとほと困じはて、エロスとアガペーと云う対比も頭に浮かんだのだが、デュラスのヴォキャブラリーにアガペーは存在せず、このように訳したわけである。このほど、この二つの語に対するデュラス自身の裏書きを入手することができた。フランス文学の古典を注釈つきの教材用テキストとしてシリーズとして出している、アメリカのブレンティス=ホール社(ニュー・ジャージ)が1968年に発行した『モデラート・カンタービレ』にデュラスは珍しく「序文」を寄せ、その中で≪この作品をとりあげた論文には、しばしば「恋愛物語」と云う呼び方が使われているが、それは皮相な読み方である。この作品は、「ある恋の物語」(イストワール・ダン・ナムール)ではなく「愛そのものの物語」(イストワール・ド・ラムール)なのだ≫と云う旨を述べている。デュラスがここで使い分けている、不定冠詞のついたアムールと、定冠詞つきのアムールの違いは、そのままジャックの台詞のうちの前後のアムールの差にそのまま重なっている”(田中倫朗『タルキニアの子馬』に寄せた「解説」よりp301)

 『モデラート・カンタービレ』がデュラスの文学生活にとって一つの画期となったのは、かかる「殉教」と「剽窃」と云う両極性が、彼女自身にとって明瞭になり、意識化された点にあるのではないかと考えているのです。

 とある酒場で中年の男女の痴情沙汰が絡んだ殺人事件がある。新聞の三面記事的な内容なのに、社長夫人であるアンヌ・デバレードは運命的な出会いを感じる。そこにはもう一人アンヌの「激情=殉教=パッション」を傍から焚きつける「扇動者」ショーバンと云う浮浪者がいて、やがて事件の真相をめぐる二人の会話は二人を「物語」の枠に閉じ込め、「憑依」と云うあり方を通じて事件をなぞり始める。
 二人の眼前には、愛の殺人と云うあの原初の風景、事件の「輪郭」があった。二人は殺人があった現場で、その場所で事件をなぞるように最後の出会いを「演出」するが、事件は無限の断念の中で永遠に放棄される。二人は殺し殺される前に、「あなたは死んだ方がよかった」「もう死んでいるわ」と云う捨て台詞をお互いに残して終わる
 無残とも滑稽とも云える情事の顛末なのだが、ここの処が正しく理解されなくて、デュラスの言う「剽窃」の意味が伝わらない。

 マルグリット・デュラスの文学は不条理の文学だから、何故なのかとか、こうこうだからああなると云う因果論的にあるいは心理主義的に問うことはできない。人が愛するとき、何故と問われても答えようがないように、そう言う事態として認めるしかないのである。
 それである日、見知っているカフェの一角で痴情沙汰が絡んだ三面記事的な殺人事件があった。これを「原画」と云うことにしよう。「原画」がなにゆえにかアンヌ・デバレードの眼には愛ゆえの殺人事件であるように思われた。愛に殉じた宗教画の一齣のようにすら思えた。それは明らかに「殉教」と云う事態と彼女にとっては等価な存在であった。ここからは心理的な説明は不要で、なにゆえにと問うのではなく、「原画」が愛の「殉教」劇であるからこそ「目撃者」と「密告者」を必要とするのである。アンヌは「目撃者」(ペテロ)であり、ショーバンは「密告者」(ユダ)である。二人の関係についてそこに恋愛関係を読みこもうとする解釈にデュラスが異議を申し立て、『ロル・V・シュタインの歓喜』を書くのは、こうした理由による。
 また二人の「愛のしのび逢い」がなにゆえ、港と広場に面したカフェと云う準公共的な環境の中で公然と演じられたかの理由も、殉教劇と云うものが「目撃者」と「密告者」の存在を必要とすると云う、単純な理由があるにすぎない。

 『モデラート・カンタービレ』がデュラス文学の中枢的な位置にあると云う意味は、「殉教」と「剽窃」と云う極度の緊張を孕んだ二項関係の釣り合いにあり、力学的平衡関係が「剽窃」の方へと大きく崩れて行く過程を描いているからにほかならない。
 『モデラート・・・』の魅力は、「殉教」と「剽窃」のバランスにある。

 もし『モデラート・・・』が「殉教」と「剽窃」の二項関係のバランスにあるのだとすれば、『ロル・V・シュタインの歓喜』は、「殉教」がこの世の外へと「超越」する至福の時間を描いている。
 ロルは、ある舞踏会の席で黒衣の女アンヌ・マリ・ストレッテルに婚約者を奪われると云う「光景」を「目撃」する。自分の切実な失恋と裏切りの経験なのに心理描写が全くなく、まるで他人事のように「事件」を「目撃」するロル・V・シュタインの感受性の在り方に注目すべきだろう。つまりフィアンセをロルが奪われると云う「光景」はあのパッション殉教としての「原画」なのであり、彼女は「目撃者」なのである。つまり、ロルの情緒纏綿とした個人の出来事は「宗教画」の卓越性の前では問題にならない、と解すべきである。
 『ロル・V・シュタインの歓喜』や『副領事』、あるいは『インディアソング』といった一連のインドシナの物語は、「殉教と剽窃」の関係に於いて、「殉教」の卓越において描かれた世界である、ということが理解される。
 ロルは、親友タチアナ・カルルの「愛人」を「奪う」と云う「原光景」の再現を自ら演じる過程で、あの十年前のアンヌ・マリ・ストレッテルとマイケル・リチャードソンとの間に演じられた「原画」を自ら演じるものとしての「目撃者」となる。宗教的構造が理解された時ロルは自らの本生を理解し、「ローラ・ヴァレリー・シュタイン」であると云う自らの本名を思い出す。そして「原画」を繰り返しなぞり始めるもう一つのローラと語り手「私」の殉教劇が、「タチアナ」のような複数の「目撃者」の存在を前提としてのみ殉教劇が成立する理由も頷けようと云うものである。
 アンヌ・マリ・ストレッテルとは、デュラスにとって純愛の理想形である。

 「殉教と剽窃」の二項関係に於いて、反対の極、つまり「剽窃」の方に降れたのが『ヴィオルヌの犯罪』である。バラバラ殺人の主犯クレール・レンヌは自らが過去に愛の至高性を経験しながら、裏切りにより「原画」は完結しなかった。彼女の数十年間に及ぶ実りのない従妹を交えた三人の奇妙な夫婦生活は「剽窃」と云う言葉が持つ意味の極限にあった。偽物、イカサマ、そうした蔑視の言葉こそその世界には相応しい。そこでは人と人との関係が、「もの」として現れる。生命の意味が剥奪された精神病者の世界が出現する。人が「もの」でしかないからこそ、人体を切り刻んでバラバラにすると云う行為が一人の人間には最も相応しい、等分の行為であると云えたのである。遺体をバラバラに切断すると云う行為は、犯罪者に固有の憎しみであるとか復讐心、その他あらゆる心理的、情緒的な動機が欠けている。バラバラにしたのは被害者の従妹が100キロほどの巨体であり、「処分」するにはそれを等分にして分割し「運搬」するほかなかったからである。また完全犯罪に対する熱意にも彼女は欠けている。全国に繋がる鉄道網の扇の要のような位置にあるとある陸橋(『セーヌ・デ・オアーズの陸橋』)に自らは遠くの様々な場所に移動することなく部分化した「遺体」を処分できると云う合理的な着想に彼女は一時得意になったが、警察の側から見れば、犯人探しの手間が省けると云う思慮に著しく欠けた行為であった。軽率であると言ってもいいほどである。それに張り込みの刑事の前でゆえなく自白してしまうのも、彼女を庇うために森が疑わしいと示唆する夫の証言が我慢ならなくなったと云う理由に過ぎないのである。それが数十年に及んだ夫婦の絆かと思うと何とも淋しい。
 なぜかデュラスはこの不毛な事件に十年間も拘り続けた。小説の最後になってデュラスはクレールが、愛の殉教劇における堕落者、サターンの末裔にすぎないことを理解する。この問いが彼女自身の中で重かったのは『太平洋の防波堤』でのデュラジアの経験が潜んでいたからではなかったか。神からも見放されありもしない人間の土地の獲得に狂奔したと云う反神話的・旧約的な時間。その灰色の時間は地下鉱脈のように綿綿とデュラスの内面の底を流れていた。デュラスは尚も自分の前で語り続ける「狂人」の前で、失意と徒労感の中で次第に事件に対する関心を失っていく自分を見出す。
 マルグリット・デュラスとクレール・レンヌとの出会いは、不幸な出会いであった。訳者田中倫朗は解説の中で、小説の劇場版『セーヌ・オワーズの陸橋』が上演されたおりに最後の場面で場内から年配の婦人がたのすすり泣きの声が聞こえたと言うが、いい加減にしてほしいものである。

 デュラスの作風が『ロル・V・シュタインの歓喜』において、音楽で言えば一種の転調、――作風ががらりと変わるのは、この不幸な事件が原因ではなかったかと密かに推測している。つまり不毛な事件の後だけにどうしても理想の女性の創生が必要とされたのである。
 ここにアンヌ・マリ・ストレッテルと云う、――通常の意味ではふしだらな恋多き女、デュラスの眼には完璧な定冠詞付きの人間の出現が要請されるのである。

 しかしこの理想の女性も『インディアソング』においては死ななければならない。彼女の自死を誰も止めることが出来ない。なぜなら、不可解なことに、死とは彼女にとって性を内側から食い破るほどの豊饒、生の「歓喜」に他ならなかったからである。
 『アンヌ・マリ・ストレッテルの歓喜』と云う表題の作品が書かれてもも良かったのである。