アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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デュラス『辻公園』 アリアドネ・アーカイブスより

デュラス『辻公園』 アリアドネアーカイブスより
2012-12-23 12:18:48
テーマ:文学と思想

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・ ああ、久し振りに読んで、この感じ、最もデュラス的な小説、代表作かどうかは別として、一番好きな本かな。高校生の時初めて読んで、いかにもフランス文学の香気を感じて、生涯文学を相手にしていきたいとの願いを初めて持った本、人生への失望と諦念を語る本は青春には相応しくないかもしれないけれども、思い出深い本なのである。あれからちょうど五十年近くがたったことになる。半世紀ぶりの読後の印象は、辻公園を舞台とする、大きく傾いた西日のように樹木の陰影を刻んでいっそう鮮やかである。

 さて、登場人物は二人、旅の行きづりの行商の男と、邸宅のアパルトメントに努める女中の、徒然の話、止まることなく、日暮れまで話し合う二人の人物のシルエット、人生の悲哀、一方は待つことに疲れた男、もう一人は生きる勇気を持たず、まだ生きても見ぬ前から恐怖心から、強迫性の心身症を患っているかに見える、神経症を患った後と前後のお話し、まるでベケットの『ゴドーを待ちながら』 のように、決して来ることのない明日を辻公園で待つ二人、この風景は何時か何処かで見たようでもあるし、未来に投影された未来に広がる前途であるようでもある。――
 端的に言えば、神は臨在するのか、と云う物語なのである。
 人類を代表する二人の前の、二人のひそひそ話の中に暮れて行く、夕日に鮮やかに照らされた辻公園の夕暮れは、人類最後の光景の様でもある。女中をしている勤勉な娘は、パリサイ派あるいはプロテスタンティズムの脅迫概念を思わせる。人に期待せぬ自助努力は未来の不確定さに堪えるリアクションでしかない。旅の行商人は、彼女が幼いころから植えつけられた義務感や未来への待望を少し弱めることができたらと助言する。つまりもう少し楽に生きれば良いのにと云う。しかしそう言う彼は、待望することに疲れはてて、週末に催されると云う土曜日のダンスパーティーへの誘いにすら決断できぬほど、倦み疲れている。

 二人は、自分たちの職業を最低のクラスにあるものと云う。しかし人生に失望しているわけではない。旅の男には旅の途上の様々な慰めがあるし、過去に一度だけとはいえこの世の何もかもが御破算になる超越的な時間と云うものが存在することを信じている。しかしその時間を旅のまにまに経験したのちは却ってかれを絶望感の底に突き落とす。つまり超越性を経験した後では日常性など何ものでも無くなってしまうのだ。それでも人は生きて行かなければならない。髪は伸びるし一日一度は最低の食事は食するだろう。肉体は精神を裏切る。一日一日とまた日を重ねる。生きていればたまには良いこともある。その日暮らしの、時には夕べの衣食住に窮することもあるが、大抵は過不足なく過ぎて行く日の方が多い。平均値として考えれば人生には概ね満足していると男は言う。
 娘にとって自分の家政婦と云う職業は、胸を張って職業とも云えないようなものでもある。彼女は八部屋を持つブルジョワジーの家族との疎遠な関係について語る。あれほど熱心に職務に没頭する様に言いながら、彼女はまともに自分の雇用主の顔を知らないのである。それは彼女が人間として処遇されていないと云う意味でもある。彼女は自分の知り合いの、自分と同じ境遇の娘について語る。彼女は晩餐が行われている主室の彼方の家事室の片隅でひっそりと肉片に被りつく。その家に飼われている犬は希少種で実は彼女と同じものを食べると云うのである。ある日彼女は犬用のビフテキを盗んで食べてしまう。それからある日彼女は犬の食事にスポンジをませて犬を殺してしまう。そのことがばれて彼女はその家に居られなくなる。つまり自分自身と自分自身の一切を御破算にしてしまいたいと云う願望が語られる。この話は現在娘が世話をしている90キロのお婆さんの介護に繋がっていく。意識もなく肉の塊のようになった彼女の世話をするうちに、それはなぜか彼女の労働に対する愚弄のようにすら思えて来る。彼女は犬を扼殺した同僚の気持ちが理解できる。まだ、人生を生き始めてもいない娘なのに、彼女の願望はこの世を、自分をひっくるめて終わりにしたいと云う潜在的な願いなのである。

 二人が語れば語るほど人生の混迷は深まっていくかに見える。しかし彼らは決して人生に絶望しているわけではない。しかし彼らのささやかな望みを語れば語るほど、夕暮れの中で二人の寂寥感が浮き彫りにされて行く。かれらは別れがたいまま、二つの提案をする。ひとつは先に述べた土曜日のダンスパーティのことである。今日は木曜日だから明後日のことになる。一つの町に二三日は留まると云う男の口ぶりからすればギリギリの日程ではある。もう一つは、せかせる男の子に催促されながら、今日だけはもう帰宅の時間をもう少し遅延出来ないか、と云う提案である。少なくとも一日ぐらいは例外が認められても良いのではないのか、人として在ると云うあり方はささやかな例外を願うことが出来ると云う点にこそあるのではないのか。そう云う旅の男の提案なのである。
 そうしたささやかな願い、勇気の第一歩を踏み出せないまま辻公園の一日は暮れ、二人は別れる。小説の叙述によれば、娘は一度も振り返らなかった、と云う。男はそれを何となく自分に対する励ましのように感じた、とある。小説はここで終わっている。

 これはもう一つの『イワン・デニソヴィッチの一日』なのである。