アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『モデラート・カンタービレ』の最後の場面 アリアドネ・アーカイブスより

モデラート・カンタービレ』の最後の場面 アリアドネアーカイブスより
2012-12-26 00:43:43
テーマ:文学と思想


・ 今日は、『モデラート・カンタービレ』の最後の場面について、なかなか諸文献等の見解も明解に述べたものが少ない、私なりの解釈を書いておく。小説の結末の難解さは、当時のデュラスの置かれた境遇の難解さの反映でもあるかもしれない。
 幾度か述べて来たように、このドラマは「殉教と剽窃」と云うキーワードを用いることで理解は容易になる。「殉教と剽窃」と云うことは、デュラス自身が語っていることであり、彼女のような作風の作家の場合、発言には重要な手掛かりが含まれていると考えなければならない。

 この小説の構成については、最初に主題が表示され、それを受けて様々な変奏が営まれると云う意味では、フーガの技法に似ている。主題あるいは主導モチーフとは愛による殺人である。目撃した事件の原因を推測する二人の間に憑依現象が生じ、第二の事件が生じようとする手前で、未然にこの話は終わる。つまり提示部の主題を受けたと云う意味で愛の「殉教」のドラマであり、主題と変奏はフーガとして完結することなく、無残にも未遂に終わったと云う意味で「剽窃」、二番煎じ、偽物のドラマなのである。ここに『モデラート・カンタービレ』の通常の感傷をよけつけないレアリスムとしての苦さがある。

 この小説には有名な演出家ピーター・ブルックによる映画化があって、最後の場面の改編にデュラス自身が激怒したことは有名である。映画では、殉教=愛による殺人事件が終わったあと、魂のない抜け殻のようになったアンヌ・デバレードを迎えに来た夫が車に乗せるところで終わっている。これでは束の間のアヴァンチュウールのように、アンヌは日常に復帰したかのように誤解されてしまうと云う点がデュラスの感に触ったのだと思う。これはブルックスの無理解なのか感傷なのか判然としない。しかし考えようによっては、日常性に引き渡されると云う不様で滑稽な姿を白日の元に映像化し、「殉教と剽窃」の関係を映画は雄弁に語っていたとも云えるのである。わたしは映画化とは、ダイジェストでも二番煎じでも、ましてや「剽窃」でもないと思っているので、これはこれでブルックの「解釈」なのだと思っている。
 映画『モデラート・カンタービレ』は、原作が「殉教と剽窃」の物語であるとするならば、デュラスの意図を超えて無残に、無機質の映像化が果たされていたように思う。原作にはないデュラスの女としての意図せざる情念がまざまざと映像化されているのである。男の目から見たらこうであろうかとも思えるほどの有閑のマダムに向けられた意地の悪い表現がある。原作は中性的な表現に終始するのだが、ブルックの持ちこんだ映像技術は粘度の高い情念的な映像を原作を相対化するものとして表現する。映像の即物性と男性の手になる演出であれば、どうしてもこうなってしまうのだろうか、そんなデュラスの嘆きが聞こえて来る。

 話を、本題である小説の最後の場面に戻すと、彼らの間に生じた憑依現象はいまやある種の確信行為にまで達している。二人が出会ってからちょうど一週間目の晩餐会の風景は、最後の晩餐のパロディである。そして再び二人が日を隔てて再会するとき、アンヌ・デバレードは公然と公衆――カフェの客――の前に姦婦として姿を現す。自らの主導に於いて冷たい手を重ね合わせ、素早く彼女はショーバンに口づけをする。アンヌ・デバレードの市民社会への不埒な挑戦こそ、既に退路は断たれてあることの雄弁な意思表示なのである。
 既に、殉教者は眼前にあった。しかしショーバンには必要な「行為」が出てこない。同様にアンヌの方にも最後の時を迎えて動揺がある。

”「もう一分」と彼は言った。「そしたらばくたちもああなれるかもしれない」
 アンヌ・デバレードはその一分を待った。そして椅子から立ち上がろうとした。ようやくの思いで彼女は立ち上がった。ショーバンは他所を見ていた。男たちはなお、この姦婦に目を向けるのを避けた。彼女は立っていた。
「あなたは死んだ方がよかったんだ」とショーバンが言った。
「もう死んでいるわ」とアンヌ・デバレードは言った。”(p144 文強調筆者)

 つまり煮え切らないのは男の方なのである。
 彼女は公衆が注目する中で「退路を断ち」、動揺しながらも最後の「一分」を待つ。そして男たちの無関心を装った刺すように注視する中を、殉教者としての在り方の可能性の中にアンヌ・デバレードは立ちつくす。いまさら、何処に帰れると云うのであろう。
 最後の、アンヌの「もう死んでいるわ」、”C'est fait. は、原文・和訳双方を比較した方によれば、直訳は、――

 ”それは既になされた”

 と云う意味で、よく使われる常套句のようである。例えば聖書などの中でも、イエスに祈りをささげる信者にキリストが言う言葉にこれがあったように記憶する。
 わたしもまた、”それは既になされた”の方が、この場面ではより相応しい
ような気がする。”死んだ方がよかった”などと今さら言われても、帰る宛とてないアンヌ・デバレードにとって、それは過去形でしか語られない既在のもはや完結を終えた内容にすぎなかったのである。

「彼女にはもはやなにひとつ残されてはいません。わたしの考えでは、彼女はおそらく狂気にむかって歩いて行くのです。」(M・D 「ル・モンド」インタヴュー)

 このような発言が繰り返されるとき、デュラスの市民社会ブルジョワ道徳に対する反感を考慮しないと、彼女の決意が正しく読み取れない。デュラスの作品は、ぬくぬくと市民社会の道徳に浸っているような感性とは相いれない。『語る女』などを読むと、デュラスの紡ぐ固有の物語を我がごとのように感じたと云うファンレターを嘲笑する彼女がいる、狂気の世界に一歩踏み込んだマルグリット・デュラスがここにはいる。

 こうして、「狂気」と「犯罪」の両極を描いた『ロル・V・シュタインの歓喜』と『ヴィオルヌの犯罪』の荒涼とした世界が開けるのである。