アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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デュラスへのしばしの別れを アリアドネ・アーカイブスより

デュラスへのしばしの別れを アリアドネアーカイブスより
2012-12-27 10:43:37
テーマ:文学と思想

・ 生涯、愛を描いたように思われながらも、実は愛を知らない作家、ではなかったのか、と云うのが主要作品を読み終えての印象である。デュラスにそのものずばりの『愛』と云う作品があるが、その表現形式は彼女自身の言う「白骨の西洋」、白骨の愛とも云うべく、無残にもいかなる感傷をも留めない。かかる乾いて透明な叙情性はそれ自身研究の課題ではあるけれども、デュラス自身の「愛」についてのアイロニーを感じてしまう。

 周知のように、デュラスの作風と文体は『辻公園』と『モデラート・カンタービレ』において、もう一度『ロル・V・シュタインの歓喜』以降において大きく変化するけれども、変化を文体論に即して見るならば、表現が脆弱さを失い、簡素な、それこそ劇場のト書、もしくは映画のシナリオに近づいていることである。わが国には映画監督デュラスが紹介されていないので何とも言えないのだが、私の知らないデュラスが明らかにいる。

 それはさておいて、内容の方に戻ると、『太平洋の防波堤』などの初期の作品を読む限りでは、遡及すべき神話的な愛があったかどうかはかなり疑わしい。『太平洋の・・・』の東洋人の青年が、後年『愛人』などにおいて、鮮やかに180度の転換を遂げて再現されることの意味は、そう容易くは納得できる問題ではない。単純に彼女の言うことを信じて、ああそうでしたか、と云うようなものでもないと思うである。

 転機になったのは彼女自身が言うように『モデラート・カンタービレ』に影響を留めていると思う。しかしこれも彼女自身が証言しているように、それを「外側から語」ったものであって、その正体を書面から描いたわけではない。
 『ロル・V・シュタインの歓喜』は、『モデラート・・・』が恋愛小説として読まれたことへの不満、リアクションである。ここでは舞踏会の夜、恋人を目の前で奪われたにもかかわらず、それをスクリーンに映し出された第三者の物語ででもあるかのように、あるいは観客の様に見ると云う感受性の持ち主が描かれる、しかもあらゆる人間的な感情を排して。失恋の痛手に傷つくこともなければ、むしろ積極的に「絵の中の二人」に付いていきたいと願いながら、見失ってしまう物語なのである。やがて恋人を奪われると云うこの経験は、十年後の時を隔てて親友のタチアナ・カルルと語り手「私」の密会、その密会の現場を盗み見すると云う経験によって再現される。小説はここで終わっていてデュラス特有の言い忘れがあって全ては沈黙の闇の中に消えてしまうのだが、あえて想像すればこの過程の次には、タチアナから語り手「私」を奪い、ロル自身が「あの舞踏会の夜」のアンヌ・マリ・ストレッテルとマイケル・リチャードソンの「絵の中の二人」を再現することになるのだろうと思う。実際にそうなると云う意味ではなく、理念化された幻影としえはそうなる、と云う意味である。

 『モデラート・・・』は、彼女自身の証言によると「殉教(愛)と剽窃」の関係を描いたものであった。つまりは、「殉教(愛)と剽窃」とは「狂気と犯罪」の関係なのである。『ロル・・・』はデュラス自身の自伝的背景に基づくと云うよりも、愛に対する皮肉、デュラス的美学の理論小説であったのではないのか。『モデラート・・・』では「外側」からしか語れなかった芯に当たる部分、――じつは芯は空洞であると云うパラドクスが存在するのだが――明晰に、理論的に表現した一種のプロバガンダ小説ではなかったか、と思っている。
 「殉教(愛)と剽窃」の関係の裏面である「狂気と犯罪」のヴァリュエーションに於いて、『ロル・・・』は「狂気」を、『副領事』は「犯罪」を象徴する、ということだろうか。『ラホールの副領事』は、ラホール領事館のテラスから無差別にライ患者に向けて発砲したと云う男の物語である。

 『モデラート・カンタービレ』がデュラスの文学において極めて重要な位置にあるのは、やがて分極化して行二極化するくテーマの、「殉教(愛)と剽窃」、さらに「狂気と犯罪」の両極観の釣り合いの微妙な均衡の上に、この作品が成立していることである。
 小説の最後に於いてアンヌ・デバレードは、「カフェ」と云う名前の準公共的な空間に公然と市民社会への反逆者としての姿を現す。そして、何と云うことであろうか、あれほど願ったことであるのに「殉教(愛)」の劇は未遂に終わる。その時、二人は聖なる空間の主人公たることから失墜し、「殉教(愛)」劇を目撃したペテロ(アンヌ)とユダ(ショーバン)へと変貌する。行きづりの男ショーバンは、旅人として立ち去ることが出来るのであるが、市民社会の中にひとり置き去られたアンヌは何処に帰ったら良いのだろうか。「狂気」の世界か、「犯罪」で自分自身を終わりにしてしまうほかはないのである。なぜなら「犯罪」とは、その隠喩に於いては「狂気」を超えた反社会性を意味するものであるからだ。
 もしかしたら、デュラスの「狂気」以上に関心を見せる「犯罪」との関係は、わたしたち読者の知らない闇を秘めているのかもしれない。

 こうして「殉教(愛)」と「狂気」を描くものとしての『ロル・V・シュタインの歓喜』と、「剽窃」と「犯罪」を描くものとしての『副領事』そして、かくもデュラスにダメージを与えた経験、その不気味な残響効果として残された『ヴィオルヌの犯罪』の世界が開けて来る。――「地獄の釜の蓋は開く」(M・D)
 なぜ、『ヴィオルヌの犯罪』のクレール・レンヌは、二十数年共に暮らした90キロを超す巨漢の従妹の死体を手ごろな大きさに「分割」したのか。数度に分けて陸橋から列車に投げ捨てることが出来た「大きさ」と云う無機的な説明だけが与えられる。人間的な憎しみや恨みとかの陰湿な情念は語られないのである。人がもはや「もの」として見えない無感動の世界が広がっている。
 デュラスは、ありえたかもしれない未来形をクレール・レンヌに見て、衝撃を受けたのである。デュラスはこの題材に十年間に渡って拘り続け、予行も含めて幾つかの戯曲と小説を書くことになる。
 結果は、遣りきれない不毛さの感覚だけが残ったのではないかと思う。

 デュラスの初期の作品に『タルキニアの子馬』と云う長編がある。五人の男女の言葉や明瞭な感情にならない微妙な関係を描いていて、おそらくデュラスが書いた最も注目すべき作品である。しかし後に彼女自身が言う処によると、この手の小説は書きあきたのだ、と云う。『語る女たち』ではグザビエル・ゴーチェを相手に、その手のものなら二週間、いえ三週間もあればかくことが出来ると誇らしげに語っている。つまり書こうと思えばこの程度の作品は惰性でも書けてしまうと言わんばかりである。これは自らの才能の誇示ではなく、「あの手の小説」では書けない内容を分かって欲しいのであろう。
 そうであるだけに、『愛』や『破壊しに、と彼女は言う』の簡素だが、「白骨」のように身を削ぎ落した無色透明の文体の評価が難しくなるのである。
 現在、わたしはデュラスの全てを通覧できる立場にない。

 こうしたデュラスの「殉教(愛)と剽窃」の関係が「狂気と犯罪」の関係へと変質を遂げて行き、遂には『ヴィオルヌの犯罪』に極まる荒涼とした「もの」的な世界の果てに、いかにして『愛人』や『北の愛人』のふくよかな世界が開け、遺作の表題のように『これおしまい』となるのか。シンデレラの寝物語は母の口から語り終えられ、デュラスは子供のように安らかな眠りについた、と云うデュラス風の最後の物語はやはり謎であるし、しかし分かるような気もする、分かってあげたい気もする。
 一人の老女が、生涯の最後におねだりを願ったとしてもそれを拒むべき理由はあるだろうか。そういうわけでまだ色々と書きたいこともあったのだが、一応、これにて打ち切りと云うことにしたい。

 最後に、様々な人間たちの物語の上に透けて見えて来る人間の「元型」性というものについて触れておく。
 これはユング心理学で使うような、様々な人間の個性や固有性を超えた超歴史的な、保存された人間の形、と云う意味ではない。ユング心理学とは反対に、人間の偉大さを証明するものではなく、人と人との生きた関係が失われると人間は個性や我執の塊となり、ある単純さに還元される。つまり地上に現象する人物像は、いよいよ明瞭に鮮明さをうきだたせる反面、まるで映画か芝居を見ているかのような類型性、真面目さと陳腐さの両極性の中に分解して行くのである。
 つまりこのことから分かるのは、通常わたしたちが人間らしさと感じているものは、個性や明瞭な意思表示ではなく、自己を主張する手前の躊躇いや微妙な心の逡巡にあることが理解されるのである。
 『モデラート・カンタービレ』のアンヌ・デバレードとショーバンの二人が、「狂おしいほどの愛」「狂気の愛」と云う風景に、まるで名画にでも接するかのように惹きつけられていくのは、二人が独特の恋愛観を持っていたと云うよりも、二人が暮らしている時間の環境からの孤絶感にある。他者たちの世界からの断絶観である。人間は集合的な生きものであるから、使い古された社会的存在であると言ってもいいのだが、表現の違いはともかく、他者たちとの生き生きとした交流を欠くと、「他性」と云う事態が生じる。「他性」とは,自分と他者の違いが曖昧になって、人格の相互浸透が生じる。アンヌとショーバンに生じる「絵の中の二人」とのパーソナルの混同あるいは憑依はその証拠である。他性はやがて二人の仲を噂するひそひそ話として、カフェや港町の街角に於いても繰り返された筈だ。やがてそのひそひそ話は外部だけでなく筒抜けとなって洩れ出て二人の内部に於いても声高に成り響いた筈である。秘密が保ってなくなる状態、何処にも逃げ場がない状態、他性が齎す凄まじい破壊的世界の出現である。しかも狂気と犯罪に囲繞された時間は、二人がたまたま落ち込んだ陥穽と云うのではなく、常に見られるものとしての「目撃者」を必要とする「殉教」の三項関係、つまりデュラスが抱く愛の形式に忠実であったと云う点にこそ、悲劇はある。
 アンヌ・デバレードとショーバンが生きた最終的な時間とは、このような精神病理的な世界であった。マルグリット・デュラスはこの点に自覚的であっただろうか。

 アンヌはブルジョワ社会の中で籠の中の鳥のように羽ばたく夢を見て生きていた。彼女が子供に向ける溺愛は母性愛の表現と云うより、追い詰められた廻りのブルジョワ的な環境への不全感の表現、存在の叫びである。他方、ショーバンは旅から旅へ渡り鳥のように生活する浮浪者、あるいは社会的不適合者である。ショーバンには、ジョルジュ・シムノンの『男の首』などに描かれた性犯罪の影を感じる。だから「殉教(愛)と剽窃」において、その裏面である「狂気」と「犯罪」のドラマに於いて、潜在的な愛の殺人者として彼は現れるのである。
 アンヌは「狂気」を、ショーバンは「犯罪」を暗示する。

 愛の殺人者、『太平洋の防波堤』の長兄の面影を見出さないだろうか。