アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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トマス・ハーディ『テス――清純な女』・上巻 アリアドネ・アーカイブスより

トマス・ハーディ『テス――清純な女』・上巻
2019-02-19 21:13:27
テーマ:文学と思想

 


 上巻の目次は下記のとおり。
 局面 第一 「乙女」
 局面 第二 「乙女ではなくなって」
 局面 第三 「持ち直し」
 局面 第四 「その結果」

 つまり物語としてはとてもシンプルなのであった。
 乙女が男に騙されて、身籠って赤子を死産させる。その後身を隠すように農場に移り住んで、そこで図らずも理想的な近代的な理念に身を固めた青年に出会い、思いがけずも求愛をされて、しかしながら自分の身に生じた過去の不幸を告げられないまま時は経過し、結婚式の時を迎える。こともあろうに初夜の夜に、互いに性に係わる互いの秘密を披露しあうのだが、女性としての我が身は夫の過失を容易に受け入れても、男の場合はそうもいかないだろうと云うことを暗示して、ハーディの上巻は終わっている。

 トマス・ハーディの文学的才能の特色は、ごくありふれた自然主義的なストーリーに乗せて、歴史や神話を重層的に重ねて語る小説の作法にある。
 第一巻「乙女」に感銘を受ける私は、テスや彼女を囲む近在の人びとが歴史的存在であると同時に神話的世界の人物でもあることだ。例えば巻頭の印象的な娘たちが白衣を翻して踊る村の行事のなかに、私たちはキリスト教の伝来以前の古代の輝きを見る。つまりハーディの19世紀自然主義は、最下層の一人の無垢なる乙女を描きながら、同時に彼女が古代の女神でもあることを描き得ているのである。
 第二巻「乙女ではなくなって」においては、まるで古代の花園の、濃厚な咽るような森を流れる乳白色の霧の中で残酷なことはなされる。古代の生贄の儀式のように。
 第三巻「持ち直し」においては、実直な、これもキリスト教の伝来以前から変わりもしなかったと思われるイギリス南部の牧歌的な農園の風景が描かれる。思いやりのある農園領主とその妻と、古代神話の女神たちのようなテスの同僚の娘たち。ここには嫉妬や憎悪と云った、人間の負の感情がまるで存在しない。それは農園領主夫妻の性格にも寄るのだが、古代以来、一日と変わりなく続けられてきた、聖なる作業――農業と牧畜業とのーーの賜物とも云える。
 そうして第四巻の「その結果」。――婚約前の男も女も犯した、あるいは受動的主体として巻き込まれた出来事をめぐって、折角手に入れたかに見えた聖婚は跡形もなく姿を変じる!
 男が都会で犯した一度だけの女遊びと、性知識も教えられないまま未成年の乙女が乙女でなくなる事態、――現代社会では些細なともいえる「過失」が、性差と当時のイギリス社会の階級意識にとって、同等の意味を持ちえない。解り易く言えば、思春期の何なる性的な過失を女は許せても男は許せない。
 これはハーディー批評家の多くが指摘するような男の身勝手さ、と云うようなものではない。本質は互いに好意を抱きあっているのに、娘は過去の傷痕に拘っているうちに、青年は神学者を出す家系の家柄ゆえに乳しぼり作業の女を妻に迎えると云う階級制を逸脱した選択ゆえに逡巡を重ねるうちに、その長すぎた時間作業の故に何時しか二人の恋の想念は高められ、手が届かないほどの存在に祭り上げてしまった、と云う言こともあったに違いない。それゆえに互いに真相が明かされた時、落差も大きかったのである。
 テスは無論のこと、青年エンジェル・クレアもまた十分、納得できるように描かれている。彼が娘の過失を許せないのは男社会の論理の身勝手さだけではなく、それほどまでに愛の理念は彼自身のなかで高められていたからなのである。テスが無私の愛に生きたことは分かり切っている。それができなかったのはテスとクレアの違いではなく、テスが属した農村レベルの零落した貧民層が持つ自由度と、知的な資産を糧にするほかはない、貴族やブルジョワジーの補完階級でしかない、中産階級的意識の限界なのである。中産階級が意識に依存すると云う点に彼女らの悲劇があった。