アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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デュラスに於ける聖なるものと犯罪そして狂気 アリアドネ・アーカイブスより

デュラスに於ける聖なるものと犯罪そして狂気
2013-01-04 15:04:17
テーマ:文学と思想

・ マルグリット・デュラスの文学は聖なるもの、そして犯罪、狂気の三項関係が鬩ぎ合っている、ちょうど愛の三角関係、三項関係がそうであるように。

 『モデラート・カンタービレ』では、性犯罪とみ見まごうばかりの痴情沙汰をきっかけとして、アンヌ・デバレードの狂気の物語が始まる。『夏の夜の10時半』においては、犯罪はある意味で過去形として完了しており、一方では未然形として形をなさぬ未来の茫漠たる時の闇に霞んでいる。

 『モデラート・・・』においては、聖なるものを透して犯罪の持つ恐るべき残虐さが暗示されている。犯罪を透して、聖なるものが顕現しないのであるならば、アンヌ・デバレードをあれほど惹きつけることはなかったであろう。
 『夏の夜の・・・』においては、犯罪はマリアの潜在的願望でもあろう。運命の不可抗力に抗う術をあらゆる点で持たないマリアにとって、自らの不吉な行動力を阻止するものこそ、アルコールの力によって自らの肉体を病ませ肉体を不全化することなのである。アルコールが齎す酩酊状態は様々な妄想を齎す反面で、不吉な想像の力を、あらゆる行動力を封じ込めてしまう、呪術的な力でもある。
 アンヌ・デバレードに於いては、アルコールが齎す酩酊はより一層彼女の妄想と狂気、聖性と反社会性を育んだが、マリアの場合は破壊的な妄想を現実化させないための、唯一の手立てなのである。

 『ラホールの副領事』そして『ロル・V・シュタインの歓喜』、『インディアソング』の副領事において「犯罪」は顕現する。『ヴィオルヌの犯罪』においては「犯罪」はより一層、無機質で無残な姿を露呈する。ところで、この犯罪者たちの系譜と隣り合わせの親密性を伴った存在者であるアンヌ・マリ・ストレッテルには「犯罪」と云う事態は無縁である。この高貴な女性は、一方では苛烈なる愛の簒奪者として、他方ではライ患者に対する「慈悲」として現象する。狂気と隣り合わせの慈悲、彼女には一部、デュラスの母親の自伝的像が投影されている。
 ただ彼女は「狂気」の道を選ばなければならない。最後まで描かれることなく一切は暗示の未然形の彼方に霞んではいるのだが、読者は彼女がやがて自死するであろうと予期している。
 アンヌ・デバレードは、「狂気」の分岐を過ぎて、やはり自死を選んだだろうか。彼女のカフェでの公然たる振る舞い、もはや子供を取り上げられて大幅に行動の自由を拘束された彼女には自死の道しか残されていないような気もする。

 同様に、マリアの命運は、「狂気」の分岐点を過ぎて、「廃人」として身を持ち崩すことにあるように思われる。彼女を見舞う運命はアル中の果ての緩慢なる死である。
 彼女は、こうした方法を自らに講じることで、悲劇が潜在的に持つ破壊性、つまり王女メディアの人類の元型性に唯一抗っているようにわたしには思える。
 「狂気」と「犯罪」を阻止するために、彼女はアルコールの酩酊状態を利用する。

 ほんの半歩の距離でありながら、アンヌ・デバレードとマリアを分かつものは何か?アンヌは子供を奪われている。マリアはアルコールの力を利用して自らを拘束することで、いまだ娘を辛うじて保有している。子を保有するか否か、「母」としての存在が王女メディアの悲劇に対する距離の深浅を規定する。しかしこれは危険な賭けだ。いつまでこの平衡を保っていられるのか。彼女は密かにクレールと娘の適正を打診している。

 ラホールの副領事や『ヴィオルヌの犯罪』のクレール夫人と、アンヌ・マリ・ストレッテルの王者的気品を分かつものは何であるのか。
 しかし、何ゆえ、アンヌ・マリ・ストレッテルの聖性は、それに近づくものを誘惑し「狂気」の世界に閉じ込めたり、「犯罪」の闇の世界に放逐してしまうのか。
 デュラスは、「殉教と剽窃」の関係について語る。

 それでは、今を去る二千年前の事情はどうだったのか。
 イエスと、それを取り巻く人たちの愛のドラマは、どうだったのか。

 二千年前の愛のドラマは、最初に「殉教」として、神とイエスの関係の二項性として現れる。これが「原画」の風景である。
 「殉教」と云う形式は、当事者だけのドラマとしてだけではなく、必然的にそれを「、目撃」するものの存在を必要とする。見られることによって愛は初めて「殉教」として聖なる形を獲得する。
 愛する者たちと、それを「目撃」するものの存在、それらが形づくる三項関係、これはDNAのように埋め込まれ構造化されたコードなのである。

 「目撃者」はやがて熟成され成長していく過程で、単なる傍観者であることを脱し、片や扇動者として、他方では極めて高いシンパシー持ち主として顕現する。
 前者の代表がユダであり、後者の代表がマグダラのマリアである。

 ユダがイエスの「死」を、マグダラがイエスの「復活」において大きな役割を果たすことは、極めて象徴的である。