アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ルイ・マルの『鬼火』 アリアドネ・アーカイブスより

ルイ・マルの『鬼火』
2013-01-11 18:37:40
テーマ:映画と演劇

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鬼火

Le Feu follet
 2013年1月11日(金) 午後1時半~
 福岡市総合図書館ミニシアター

監督:ルイ・マル
 出演:モーリス・ロネジャンヌ・モローほか
 音楽:エリック・サティ
 公開:1963年、1967年(日本)

 この高名な映画、久し振りに福永武彦の『草の花』を思い出しました。愛されない苦悩と孤独を描いた戦後の一時期を代弁したマイナーな傑作の一つですね。ただ、わたしはこうした作品が苦手なので、同様に若いころこの映画を見ても参考にしなかっただろうな、と思いました。それでは、現在の年齢も随分進んで、この映画の主人公の倍近くも生きて何事かの感慨を持ったかと云うと、やはり無理なのです。この手の物語は、苦手であると云う意味では変わらないのです。

 とはいえ、変わったのは、やはりわたしの感受性でした。内部に辛辣な批評の言葉が見いだせないのです。むしろ、この映画は間違いなく青春100パーセントの映画でありながら、最近の若い人たちは素直には肯なえないだろうな、と残念な気持ちで思いました。こんなモーリス・ロネの演じたような純粋な青年など一人もいはしないのです。純粋さとは、あの時代に固有の現象なのですから・・・。

 この映画が貴重なのは、この映画を見ることで、マルのもう一つの代表作『死刑台のエレベーター』がよりよく理解できるだろうと云う点です。分かり難いかもしれませんが、マルの青春映画にある哀しさは、彼が生きた時代を考えないと理解できない部分があるのです。『死刑台の・・・』においては、三文記事的な犯罪が、「戦後」と云う狭義の意味での、英雄的な戦時のレジスタンス的な時代とも違い、60年代以降の高度成長と文化経済的な安定期とも異なった、その両者に挟まれた束の間の時間感覚の刹那性に於いてこそ、支えられていました。『死刑台・・・』は戦後に生き得ない人間の不器用さ不様さを滑稽に、マイルス・デービスの乾いたトランペットの響きに乗せて非情に、突き放して描きましたが、その内面に入りこんで、慟哭の思いを吐露したのがこの映画だったのです。エリック・サティの可憐な旋律に紡がれたルイ・マルの私映画とも云えるような映画だったのです。映画の出来不出来はともかく、フランス映画、特にヌーベル・ヴァーグの記憶に何らかの思いを残す人びとにとっては、無視してはならない映画なのです。

 映画は、青年の自殺に至る48時間を描いています。ぬるま湯のような精神病棟からの退院を勧告され、この世の名残りに訪れたパリと昔の友人たちを訪ね歩く彼の彷徨は、まるで小津の『東京物語』のようです。彼は至る所に違和を感じます。戦中-戦後直後の安定と云うものと無縁な時間構造に生きて来た彼にとっては、「戦後」のあらゆる安定化の兆しが我慢ならないのです。この映画には、戦中-戦後のレジスタンス-アルジェリア戦争を闘ってきたもののその後が描かれます。中産市民階級に埋没しつつ学者としてはエジプト学に貢献することで、日常性と超越性のバランスを取ろうとする者がいます。時代の流れは英雄神話の時代を急速に洗い流しつつある現状を直視せずアナクロニズムに一生を駈けて悔いないと主張する一団
がいます。そして最後には、歴史から何事も学ばなかったかのような平穏無事を誇張するブルジョワ階級の生活様式に回帰した昔の友人たちが出てきます。しかしこの映画の哀しさは、彼の眼を透して描かれた誰もが、この青年の生き方よりはいくらかはましなことです。この点が『草の花』や『東京物語』などの抒情的な語りとは異なる点です。この青年のくだらなさ、往生際の悪さを描く点に於いてこそ、ルイ・マルの冷徹なレアリスムが感じられるのです。

 青年は最後にピストルで自らの心臓を打ち抜きます。彼の死の様相は描かれずに、モールス・ロネのストップモーションで映画は終わります。
 哀れなのは、この自殺劇の前に彼が心を寄せていた元恋人の一人から電話がかかって来ます。昔の友人知人たちとの断絶ではなく、最小の人間としての心の繋がりと云う点を確認できたことが、最後の一撃に繋がっていること、つまり絶望感だけでは死ねなかったという点に、この青年の本当の哀れさがあるのです。

 モーリス・ロネと云う俳優は、美男だけれどもついてない役が多く、『死刑台の・・・』では完全犯罪を目論むドジな青年を好演していました。『太陽がいっぱい』ではアラン・ドロンに殺されてしまいます。(『マンハッタンの哀愁』のような隠された名作もありますが)そしてこの映画では、フランス映画史上有数の女女しい科白を残して自らの生涯に幕を閉じるのです。正確な引用ではありませんが――

”君たちは僕を愛さなかった。僕も君たちを愛さなかった。この君たちの生涯の汚点を刻印するために僕は死んでみせる!”

 青年は何故、自己制裁の道を選んだのでしょうか。この映画を見て誰もが感じるのは、自分の生き方の収支決算をするのは他人ではないと云うことです。彼の自殺に至る動機も、昔の友人知人を訪ね歩き失望と断絶観を感じたとは云うものの、彼らが自分の死後も、少しの期間であるにせよ思い出してもらえると云う他者への甘えを起点に青年の発想が全て展開していることです。しかしこの青年の異常な甘えを指摘することだけでは十分ではないのです。戦後の、恒常的安定性を見出しつつあった戦後の時間構造に青年が感じる違和、ある時代に於いて生きると云うことに伴う高貴さの感情と、余りにも隔たった戦後の下卑た世相の対比こそが肝心な点なのです。
 わたしが、この感情の質、若い人たちには理解できないだろうな、と思い返しつつ感慨にとらわれたと云う意味は、そのような意味です。最も青年らしい純粋さが、青春期に固有の無垢さが、その年代にあっては理解されずに、思い返されることもなく忘れてしまう、そこに青春と云うもののイロニーがあります。ジャン・リュック・ゴダールの『気違いピエロ』の結末が似ているのは、ゴダールルイ・マルへのオマージュの積りなのです。

 このような「映画たち」を造れるフランス人とは素晴らしい人たちだと思います。日本人は昔から本音と建前の二元論が好きですが、いま、日本人の大多数を捉えてている桎梏から解放するものこそ、じつはこのようなナイーヴな感受性の質であるのかもしれないのです。

 表題の「鬼火」とは、沸々と消えることのない見捨てられたものの情念、と云う程の意味だと思います。戦後の虚飾と繁栄の中で、踏みにじられたもの、声なきものの死者たちの声、彼らを見捨てたのも、彼らの死に手を貸したものも「あなた」にほかならない、と云う苦さがこの映画にはあります。

 58歳で亡くなったモーリス・ロネの霊前にこの一文を奉げます。


http://sky.geocities.jp/habane999/Mao/C/02/wall.jpg
モーリス・ロネ(Maurice Ronet, 1927年4月13日 - 1983年3月14日)

エリック・サティジムノペディ

https://www.youtube.com/watch?v=3439BgooWmQ