アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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カウボーイ理性批判 『ガンファイター』にみる愛の諸相の論理学 アリアドネ・アーカイブスより

カウボーイ理性批判 『ガンファイター』にみる愛の諸相の論理学
2013-01-19 11:13:51
テーマ:文学と思想

 それにしても最後に二人のガンマンが対決する場面、カーク・ダグラスも良いけれどもロック・ハドソン、俳優としての良さが全て出ていたように思いました。
 間近な死を目指して確信を持って早足で歩を刻む黒ずくめに金色のスカーフを靡かせる如何にも伊達ものと云う風貌の無法者、そしてこれは着慣らしたチョッキとズボンに無造作にぶら下がったガンベルト。挑戦者の気迫を受けとめる様に、しかし最後までためらいながら、悲劇が持つ吸引力に引き込まれて行く保安官の鈍い歩み、広場の奥に黒い挑戦者の影を認めたとき、避けられない運命としての場を自覚したときに、保安官は自らを勇気づける様に相手を凝視しながら帽子を丁寧にかぶり直すのですが、この静寂を秘めた広場の孤独、惨劇の前の一瞬は印象的です。育ちの良いアメリカ人の優しさと勇気を描いた名場面だと思います。

 
デリンジャーと保安官が用いたコルト45

 しかし、この場面、不思議ですね、なぜ保安官は広場を廻りながら接近戦に持ち込んだのでしょうか。余程自信があったのでしょうか、射程距離の利点を持つコルト45の長所を生かさずに、デリンジャーが有利な至近距離に近づいて対決する、相手の最も得意な領域で勝敗を受けとめる、なぜなら見通しの良い広場と云うデリンジャーには最も不利な対決の場面が何ゆえか選択されてあったからです。不利な場面を選んで必敗?の決意を籠めて一直線に進んで来る相手への無言の応答がここにはあるのです。将に男の世界ですね。巌流島の宮本武蔵の決闘とは何と違っていることでしょう。勝敗が全てではなく、心意気に生死を掛ける、そうした場面だったと思います。
 宮本武蔵とは何が違うのでしょうか。武闘とは神技とはいえ武蔵の場合技芸を超えるものはないのです。それ自身を自己目的化したところに純粋芸術としての武芸と云う世界が成立するのです。西洋的倫理観に於いては、人間の技は所詮絶対者の前では平等なのです。それ自身を自己目的化して神技と化すかどうかの間には選択の余地が残されているのです。個人としてどうあるかと云う問題よりも、背景にある世界観、文化の差を感じます。

 世界観、文化の差は、女性観の違いに顕著に現れます。
 宮本武蔵が、つれなく女性を禁忌するのとは対照的です。この国のヒーローのにとっては、愛とは自ら求めるものではなく、やむを得ず受けるものだと云う世界観には、何事も拝命すると云う、この国の「先生方」の保守的な行動原理が反映したものがありますので、感無量を越えたものを感じます。謙虚を装って極めて打算的と云うのが戦国以来の実務家の政治原理です。
 話が脱線気味ですが、こうなると大和魂や純粋な精神性と云うことの意味が次第に分からなくなっていきます、いっそ無教養な「カウボーイ」の方に聴くべきかどうかなどと疑心暗鬼に陥りそうです。


  思えばカーク・ダグラス演じるカウボーイに人類の長い愛に関する考察が全て含まれているように思いました。
 愛の第一段階は、愛欲と性愛、女性は「もの」として、所有欲の対象でしかありません。この段階では、愛と性は未分化なままで区別されてはありません。女に対する独占欲の余り、彼女を隔離し、近づく男たちを次々と殴り倒したと云う無法者の過去の思い出話は、この段階です。
 愛の第二段階は、過去の恋人の想いに殉じようとするロマンティスムの段階に達した男の姿です。これが映画の初めに口笛を吹きながらダンディな姿で登場する男の段階です。性と愛が区分されています。しかしそれは観念による意識的な卓越的選択の段階ではありません。区別はされていますが、先-意識的な未分化の状態なのです。ロマンティック・プラトニスムの段階と云うように名付けておきましょう。
 愛の段三段階は、男が昔の恋人の娘の純情に絆されてその愛を受け入れる段階、その後自分たちが実の親子であると云う秘密を母親から告げられて絶望する段階を経て、この絶望を乗り越えて父親としての愛、父性を取り戻す段階で表現されます。性愛や愛欲が完全に克服された段階を、この映画では父性の愛として描いているのが特徴と云えます。表現としては可笑しいのですが、仮にイデアリスティック・プラトニスムの段階と名付けておこうと思います。

 これを、なあんだ、と云ってはならないのです。
 愛とは、脱落の過程です。禅で心身脱落と云いますが、似たようなことが起きるのだと云うようなことが言われています。
 愛欲や性愛は、プラトニスムの段階で、肉体が脱落します。しかしロマンティック・プラトニスムの段階では、「未分化」と云うことは意識的には精神と肉体の分離が自覚的には捉えられていないと云う意味です。
 イデアリスティック・プラトニスムの段階では、未分化であったのものが意識や知性を通じて明瞭化されます。つまり愛と云う捉えどころのないものが初めて明瞭な残像として捉えられると云う意味です。これは考えてみれば怖ろしい段階です、地上的なものが価値が全て失われると云う段階です。つまり愛はこの段階では限りなく宗教に近い段階に到達します。古今東西の物語に描かれた愛の殉教者たちに極めて類似して行くのです。トリスタンとイゾルデの世界、ロミオとジュリエットの世界、近松の世界ですね。

 この後の段階、愛する対象そのものすら燃え尽きてしまうような段階があるようなのですが、ドイツの詩人ライナー・マリア・リルケは、加速を深めつつある愛は、最終的には愛する対象をも追いぬいてしまう段階がある、と云うのです。
 わたしは愛欲や煩悩の世界すら脱却できていない人間であるので、この前人未到の段階について語る資格はないのですが、この後の段階で仏教云う還業、つまり一転して世俗を目指す戻り業のようなものがあるように思うのですが・・・。施業と云うのでしょうか、仏教にお詳しい方があれば教えていただきたい。
 つまり無法者のカウボーイが父親のように娘を諭す場面では、愛の対象も愛そのものも消え果てて、自分の死後のことをしきりに語るのです。それは現象的には卑近な表現として「父性愛」と云う型式を仮にとってはいますが、純化された愛の最終段階ではないかと思えるのです。
 愛の加速度がどんどん速くなって、視野から全てが視界から消えてしまいます、ただ一つのものを除いて。だから男は残された相手を、つまり死を受容的に受けとるのです。男が絶望のあまり死を選択した、という意味ではないのです。愛が只管自己完結を願って死の花飾りを、メヴィウスの輪を閉じようとしているのです。

 大袈裟なと思われるかもしれませんが、たかが西部劇とは思えない映画でした。カウボーイ理性批判、ここではカントの使用例に倣っています。日本語の慣用例としては少ししっくりしないかもしれません。
 しかし、最近のアメリカがカウボーイ理性批判とは隔たった処にある、というのも間違いはないでしょう。この場合はカウボーイ的理性批判、”・・・的”がついています。