アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ゼフィレッリの『椿姫』 アリアドネ・アーカイブスより

ゼフィレッリの『椿姫』
2013-01-19 23:10:06
テーマ:音楽と歌劇

http://www.bookoffonline.co.jp/goodsimages/L/000124/0001243288L.jpg

・日時:2013/1/18 (金) 19:00―21:00
・会場:あじびホール

監督・脚本・美術:フランコ・ゼフィレッリ
原作:アレクサンドル・デュマ・フィス
原曲:ジョゼッペ・ヴェルディ
音楽監督・指揮:ジェームズ・レヴァイン
           メトロポリタン歌劇場管弦楽団
出演:テレサ・ストラータス 
    プラシド・ドミンゴ
    ボリショイ国立劇場
    エカテリーナ・マクシーモワ
    ウラジミール・ワシーリェフ

・ ゼフィレッリの『椿姫』(1984年)、30年前の映画だが、とにかくインテリア、衣装・装束が素晴らしく豪華である。オペラ、映画と様々に再演されてきているので、印象が入り混じって、このオペラ映画がと、――映画仕立てのオペラ――と特徴が一口で言えない。

 物語は紹介するまでもなく、高級娼婦と呼ばれる”ラ・トラヴィアータと呼ばれる商売女と青年の純愛を描いたものである。以前、舞台関係の人達と話すときに、”椿姫”とは云わないので不思議に思っていたら、堕落した職業に属する女と云う意味合いがあるらしく、『椿姫』では語感が伝わらないので、”ラ・トラヴィアータ”の方を用いていたのですね。

 『椿姫』を見たいとこのところ思っていたのは、一つには、”ラ・トラヴィアータ”つまり日本ではなじみのない高級娼婦と云う概念が、プルーストの『失われた時を求めて』の中でかなり大きな意味を持っているので、一度復習してみたいと感じていたことによる。

 ヒロインであるマルグリット・ゴーチェとオデットでは随分性格が違う。こう云う職業であるがゆえに、反って無私なものに敏感だと云うことはあるだろう。こうした特殊化された世界は、平準化著しい今日の大衆社会では分かり難い。こう云うのはお話しですよと、妙に醒めた意識で観ているのでリアリスティックな物語としては真剣に見ていない、そんなところがあるようだ。

 ヴェルディのオペラは青年の父親にかなりの比重を於いて描かれているような気がする。特に今回見たゼッフィレッリの演出では、父親の役割は異常に大きい。オペラは映画や舞台以上に筋の展開や役造りに於いて制約が多いので、特性化はいっそう顕著であったように見える。大詰めで、父親に説得された椿姫は、力なく、「父としてだいて欲しい」と云う。つまりこの場面で、アルマンの中に平凡な家庭像を同時に夢見ていたことが了解されるのである。単なる純愛と云うものではない、と云うことが分かる。この辺は、原作を読んでいないので何とも言えない。

 また最後の間面でも、椿姫の死に青年は間に合わない。青年が駈けつけてくれたと云う幻想を夢に抱きながら、ひとり寂しく死んでいく。幻想だと云うことが分かっているので、二人が幻想的世界の中で死の床に駈けつけた青年の抱擁を喜びながらも、「こんなに若くして自分は死んでいく」と云う嘆きの歌の意味が納得される。例え死の床であっても、恋人との真実の邂逅を果たしたのであれば、なおのこと愛の永遠性を声高に歌いあげて幕となるはずである。薄幸の女性の恨みが残るような演出であった。

 何に対する恨みなのか。二人の間を断つべく説得した父親にたいするものだろう。しかしこの「父」とは人格としての青年の親であると云う意味に留まらず、かかる運命を齎した父なる神でもある。彼女のアンビヴァレンスの感情は、キリスト教の倫理が宗教的な世界だけではなく、律法的に生活の一切を律する原理になっていたからにほかならない。

 ゼッフィレッリの演出は、青年の将来を願って犠牲的な愛に殉じると云うよりも、平凡な家庭像の原理のために自らを死に追い込んだ、と云う意味でいっそう憐れである。

 当時ドミンゴもストラータスも四十台半ば頃で、全盛期だったと思う。
 舞台オペラと映画オペラ、前者がいいとは云いませんが、後者では映像と音楽は別々に取られて再編集される。主役のドミンゴが朗々と歌唱力を響かせるのは素晴らしいのだが、舞台と違って映像では何かこの悲恋物語の繊細さとそぐわない。容姿の立派なドミンゴでは、この経済力を欠いた青年の悲哀とはかけ離れてしまうのだ。舞台ではそう気にならないのだが、映像化すると少し気になった。
 またヒロインを演じたストラータスは美貌で華奢な肢体は舞台の内容にぴったりなのだが、純情さと場数を踏んだ高級娼婦の寛容さと云う、相矛盾した面を同時に表現すると云う”ラ・トラヴィアータ”(堕落した女)ならではの存在感が希薄なような気がした。歌と踊りに重点を置くオペラでは役造りと云う点では、ゼッフィレッリですら難しいようだ。