アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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マルグリット 愛の二面性 アリアドネ・アーカイブスより

マルグリット 愛の二面性
2013-01-20 15:51:15
テーマ:文学と思想

2.
 最後に、デュラスの愛の経験が特殊なものであったことは言っておかなければならないだろう。愛の型式は殉教劇の被害者(次兄)と加害者(長兄)の輻輳した二重性として現れる。この不幸なインドシナ時代の経験がデュラスの生涯にDNAのように組み込まれていて、彼女が他者を愛しようとする時いつも、この愛の相貌性が常に悪夢のように立ち現われてきたのではなかっただろうか。

 思い出に残された次兄はともかく、長兄が『愛人』や『北の愛人』(1991年)に描かれたような、単なるサディスティックな一面化された実像だけでなかったことは『木立の中の日々』(1954年)などを読めばわかることだ。
 「殉教と剽窃」の問題は、終始彼女に人間の関係性の基底部にあるものとして、元型性構造として、ついには神話として伝説としてついて廻ったのではなかろうか。

 殺されたと思う程の狂おしい、犯罪と隣り合わせの愛、それを早くも短編集『木立の中の日々』の「工事現場」において観ることが出来る。
 工事現場の背後に広がる黒々とした森、最後の場面で二人は決然とした思いで沼を囲む森の岸辺に歩を進める。惨劇を予感させるところで筆が置いてある。
 この森が、インドシナの森の再現であることは明らかだろう。愛の狩人としての長兄の残像が『モデラート・カンタービレ』のショーバンに再現していることは明らかだろう。
 
 なぜ母親は長兄だけを愛したのか。愛の狩人としての加害者としての兄に。そして見捨てられた受難の象徴としての次兄、またもや殉教と剽窃。美と愛惜は滅びやすい。次兄は兄弟のうちの誰よりも誰よりも早く死んでしまう。美しい思い出だけを残して。
 次兄の思い出は、『愛人』の中国人の男を通して一部、再現されるのだろう。

 茨姫のような過去の呪縛を解くためには、「殉教と剽窃」のドラマが、少なくとも「ピエタ」として、マグダラのマリアの涙によって拭い拭きとられなければならなかった。同性愛のうら若き青年の処女のような涙が・・・。

 マルグリット・デュラスがなにゆえ語る女、すなわち小説家にならなければならなかったのかの理由のひとつがここにはあるだろう。