アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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★プルーストの文学研究への憶念? アリアドネ・アーカイブスより

プルーストの文学研究への憶念?
2013-03-02 11:58:15
テーマ:文学と思想

 『失われた時を求めて』を読んでいてしっくりいかないのが、第一巻『スワンの家の方』の中にある、ヴァントゥイユの娘とその性愛の女友達のサディスムを描いた場面である。この場面がくると何時もしっくりとこない、何故だろうと考えて来た。この場面は後のどう作曲家の七重奏曲と同性愛と云う、『失われた時を求めて』の重要なテーマへの伏線となっているので、その位置について論議することは棚上げされてきた感がある。この場面は多くの研究者や読者が疑っても見ないような、現実に起きた出来事なのだろうか。むしろ、この場面が散歩の途中の野原での転寝が齎した夢か妄想であったとしても、後の『失われた時・・・』の布石としての役割は変わらないような気がする。
 この場面を仮に、語り手の妄想か白日夢と考えることによって、同性愛とサディズムと云うスキャンダラスな出来事は「外部」の偶然性を離れて、語り手固有の属性へと形を変えるのである。
 そう読むことによって、語り手の潜在意識の中に、「涜神」と云う行為が何時とはなく内在されていることが暗示されるのである。語り手は『失われた時・・・』劈頭の有名な就寝劇によって生活不適合者であることが家庭内においても「認知」を受ける。それは同時に被虐性としての母子的涅槃的な共同性によるアリアドネの近親相姦的な糸によって絡め取られて生きる事であり、反面、それは加虐性としての永遠の「母殺し」のテーマを引き継ぐものでもあったのである。

 二つ目は第4巻『ソドムとゴモラ』冒頭の、シャリユス男爵と仕立て職人ジュピアンの出会いを描いた「名場面」である。同性愛の問題はなるほどプルースト読解においては重要なテーマであるが、一切が「最後の審判」的フィナーレ、一切の事どもが神々のたそがれを詠う壮大な没落劇の隠喩として用いられている気がしないでもない。
 第二に同性愛の問題は、ユダヤ性の問題とオーバーラップしている。周知のように『失われた時・・・』の語り手は、現実の作者がそうだったようには、ユダヤ人としては描かれていない。プルーストは自らがユダヤ人であったにもかかわらず、友人ブロックなどの造形を見ると辛辣を極めていて容赦がない。同性愛の問題は、『失われた時・・・』において自らのユダヤ性を表出出来なかったことへの代償作用なのではないだろうか。
 第三に、同性愛と両性具有の問題は分けて考えるべきではないだろうか。同性愛は肉体や外部の属性に固執するけれども、両性具有性の問題は、肉体的なこの世的な属性を払拭した段階から始まる。
 愛は、ある段階を過ぎると、肉体的な属性が本質的とはなくなる。ゲーテが「永遠に女性的なものに導かれて行く」と歌ったように、或いはマルグリット・デュラスが人は創造的であるためには内部に一人の女性を住まわせていなければならないと書いたように、如何なる愛もある段階を超えると女性的な相貌を帯びるのである。ゲーテの「永遠に女性的なもの」が主体的なものであるならばゴモラの女なのであり、反対に対象に投影するならばソドムの女なのである。
 ちなみに、「永遠に女性的なもの」とは、プルーストの場合は母なるものなのであった。

 最後に第七巻『見出された時』に描かれる作家開眼の場面である。『失われた時を求めて』は、劈頭の就寝劇とプチットマドレーヌの挿話に代表されるように、意識的回想と無意識的回想の相互的モザイク的な組合せだけからなっていて、無意識的回想の物語だけではない。
 無意識的回想力が優れていて、知性や理性、意識的回想力が無力だというわけではない。むしろ、所与的認識と云う近世以降代表的になって行った、静態的な認識論の無力を証明している。意識的回想である就寝劇においても無意識的回想であるプチットマドレーヌの挿話にしても、何れもがベッドの上で輾転反側する身体感覚と固有な記憶が結びついた生涯の方位との相似的コレスポンダンスであり、視覚や聴覚以前の味覚や触覚と云う原始的な諸感覚である。つまり先言語的な、意味作用以前の統合的な人間的感性が持つ始原性が問題にされていると観るべきだろう。つまりベッドの上で眠れないまま輾転反側して過去を思い出す挿話は身体性の各部位に基づいた固有な記憶と認識の再現なのである。プルーストが言語に先立って自らの美学理論を、エルスチールの絵画やヴァントゥイユの音楽において語った意義は、言語以外の表現形式の可能性への言及であり、つまりは今日で云う先言語的意味作用、統覚的身体性言語の如きもへの暗示なのだろう。
 云うまでもなく人類の歴史の中で身体性言語が卓越する局面は、呪術であり、巫女による憑依現象である。『失われた時を求めて』の主要なヒロインは、何れも古代的な巫女的な面影を彷彿とさせる。

 だから長大な小説の掉尾として描かれた小説化たらんとする開眼にしても文字通りの打出の小槌のようなパフォーマンスの劇として読まれるべきではない。劇中先行者として語り手に極めて似ているとされる趣味人シャルル・スワンが結局芸術家たりえずディレッタントとして、芸術の王国の出口で引き返したのに対して、語り手は知性を用いてサンザシの茂みが笑み掛けた秘密を知性の力によって読み解くことが出来たからと云って、語り手に訪れた啓示がスワンの生涯に対してより偉大な行為であったとは必ずしも言えない。
 むしろスワンは、自分の恋を振り返って、熱が冷めてみれば自身の興味に価する高級な人間でも卓越に価する人物でもなかったと述懐することによって、自分自身の生涯のある時期にに生じた偉大な出来事の意味を理解することもなくこの世を終えるであろうことを寂寥の中に読者に了解させる。それを芸術家であることに自覚的であること、つまり言語化できたから偉大なのではない。通常われわれが理解している実人生と云うものは非現実なのであり、芸術の様式に於いてこそ真実在として再構成され救済されるべきであるという意味でもない。人生とは無限の現像されない未然の陰画の宝庫のようなものだとプルーストは言うのである。陰画は、たとえ芸術家によって意識化され形象化されることがなくても、それ自体によって偉大なのである。

 芸術作品は、時に言語を超えた超主観的な「語り」として、あるいは主客未然の「調子」(アクサン)として息を吹き返すことがある。それは人類が進化するに従って見失った統合的な共通感覚のようなものであり、プルーストが執拗に語ったようにケルト神話の妖精の如きもの、再訪と再帰が待たれる人類の記憶である。彼らは時を超えて生きるけれども、不死と云うことではない。妖精や神々はわれわれの感性とともに生き死にし彼らもまたわれわれと興亡を共にする。この思想は冷厳冷徹な一神教の思想とは違ってわれわれの心を限りなく慰める。感性は伝統として或いは慣習として、あるいは芸術の様式として引き継がれるならば、個体の死を超えた実在の在りかについて、つまり永遠なるものの扉の有無について、ある種の啓示を与えるのである。