アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ビュトール『時間割』を読む――世界文学全集への挽歌 アリアドネ・アーカイブスより

ビュトール『時間割』を読む――世界文学全集への挽歌
2013-04-11 14:38:54
テーマ:文学と思想

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・ ビュトールの作品は一つ読んだだけでは誤解しかねない、とつくづく思う。先に読んだ『心変わり』の場合もそうだったが、主人公は、いまで云う”派遣社員”、である。(五十年ほど前読んだ時は派遣の実体が日本の社会にないので理解できなかったが、その後の日本社会の変質は背景をより容易に読みとれるようにさせた。)『時間割』を読む場合は、彼の社会的劣等感が根本的な実存的な劣等感に置きかえられて行く過程を読み過ごしてしまうとこの小説から逆の結論を引き出してしまいかねない。(派遣と類似の立場に身を置くことで私にも理解が容易になった。)ついでにおさらいしておけばもう一つの代表作『心変わり』の主人公はいけ好かない俗臭ぷんぷんの商社のパリ支店長であった。この作品を読む場合は小商社の支店長と云う点を抑えておく点が大事なのであって、たまたまかかる職業的位置や社会的身分がヒーローに与えられているわけではない。サラリーマン社会固有の男の身勝手さや俗物性を計算のうちに入れて読まねば作品を大いに誤解してしまいかねない。ビュトールのもう一つの小説『心変わり』は、ロマン的小説的世界を世俗的俗臭が黴のように腐食し覆うことでローマに住むヒロインの清楚な可憐さが際立ってくると云う小説構造を持っている。通常の一人の男を二人の女が囲む三角関係と呼ばれるロマネスクとは違って、余りのヒロインの品性のなさに敵同士の女二人が含み笑いをすると云う秀逸な場面があるが、詳細は実際に読んでいただきたい。
 ミシェル・ビュトールの小説の主人公は決まってある時期の戦後社会を代表するような俗物を選んでいることは彼の文学の特色ではあると云える。尤も作家のミシエル・ビュトール本人が俗物であったかどうか、これは一概に言えぬことではあるが。(わたしは案外俗物だったのではないか、と思っている。)
 ちなみにもう少し脱線めいて言及すれば、同時に納められているサルトルの『嘔吐』は、”俗物”の考察が光っている小説である。通常の世俗的俗物だけではなく、ヒューマニズムという名の牛の胃袋のような旺盛さと貪欲さを槍玉に挙げている点が素晴らしいと云うか、何か今日に於いても日欧の格差を感じて羨望の念を禁じ得ない。

 さて、『時間割』である。訳者である清水徹は解説で色々と難しいことを言っているけれども、要するにこの物語はフランス人の派遣社員が一年間ブレストンと云う実際はマンチェスタ-をモデルとした灰と泥の芥に満ちた町の中で過ごした現在進行形の回想録である。物語の枠組みとして≪カインとアベルの物語≫と≪アリアドネ神話≫が用いられているけれども無視して差し支えない。≪カイン・・・≫説話の借用は、史上最初の殺人物語が同時に最初の都市建設者であったことによる都市物語の由縁を顕彰するものであり、≪アリアドネ≫説話は取りあえずはアイデンティティ確保の物語として採用されているが深い仔細はない。また語りの手法として、一年間が半分ほど経過した時点で語りが始まり、それ以降の同時進行的な出来事の経過が書かれるつある回想録に微妙な影響を与え続けると云う複雑な趣向もあるが、これも読む上では無視してかまわない。作者も翻訳家も不満かもしれないが一応そのように言っておく。

 冷静に頭を冷やせば難しいことは何も起きていないのに、読めば読むほど解らなくなると云うのが実はこの本のテーマである。推理小説では悪戦苦闘の末犯人が捕まることがあるがこの小説はそうした常套手段をあざ笑う、実に失礼な小説である。観点を変えてみれば、火のないところにも煙は立つよ!それを実証して見ましょうと云うのが実は深刻めかしているけれどもこの小説の真のテーマである。だからこの本を読んで何を作者が言いたいのか解らないと云う感想を持ったとすればそれこそ作者ビュトールが望んだ”正しい読み方”なのであって、これをしかつめらしくジョイスがどうのプルーストがどうの、キルケゴールサルトルがどうのと云う読み方は単なるお間違い、あるいは文学的スノビズムに過ぎないことを思い知らせる苦い小説なのである。フランスと日本の読者をよくも何十年も誑かしつづけたものである。

 ・・・と云うことで私の感想は終わりなのだがこれでは余りにも身も蓋もない、それでわたしがどう読んだかを書いておこう。

 しがないフランス人派遣社員ルヴェルは一年間の契約で語学を生かした派遣業務をこなす為にマンチェスターがモデルとされるブレストンと云う暗鬱な工業都市で過ごすことになる。ルヴェルと都市ブレストンの出会いは陰惨なものがあってお迎えのセレモニーも手違いで逸して徹夜で駅前の広場を徘徊し駅舎のベンチで夜明けを迎えると云う陰惨なものである。彼はお迎えがないことを単なる手違いと云っているけれども実際は彼の存在は実社会に於いて”軽き”存在なのである、その点を彼は永遠に認識することが出来ない。彼の都市ブレストンに対する反感は彼の社会的存在の規定性から来る劣等感の裏返しにすぎない。それをパリ大学卒のこのインテリはこと難しくカインがどうのアベルがどうのと難しく言いたてるのである。その知的俗物の滑稽さこそ実は読み取って欲しいと作者ビュトールは望んでいるのである。

 ≪カインとアベルの物語≫と云う最初の都市建設者と殺人劇と云うシチュエーションを空間的枠組みとして利用しながら、時間的枠組みとしては≪アリアドネ神話≫、つまり英雄テーセウスのアリアドネ姉妹をめぐる愛の物語を利用する。つまり主人公ルヴェルはこの灰色の町で唯一の光彩、アリアドネの姉妹と出会うのだが、小さな打算のソロバンをはじいているうちに両方共の恋を逸する、と云う物語である。これももう一つイソップだかの、獲物を加えて橋を通りかかった犬がもう一つ欲しいと水に映った自分自身に向かって吠えたら身も蓋もない結末が待ちかまえていたと云う笑話と同様の趣向である。われわれは霞みを食って生きているわけではないから社会的実力と云うものも恋愛に少なからぬ影響を与えるに違いない。それを『椿姫』のように真のロマンの世界は別次元の出来事だと云わんばかりに意識の圏外に置くジャック・ルヴェルと云う人間の愚かさを読み取って欲しい、そう云う意味では騎士道小説を読み過ぎて珍妙な旅に出たドン・キホーテの物語が物語についての注釈、物語の物語であったように、ルヴェルの物語は文学青年に奉げる小説の小説、苦い志高き20世紀世界文学全集への挽歌なのである。

 さらにジャック・ルヴェルの凄さは一連の自分自身の不首尾を人の所為にしようと色々と画策する点にある。見知らぬ都市で、たかが派遣と無視する社員団の中にありながら唯一慣れぬ数カ月間あれこれと世話を見てくれた友人に、推理小説≪ブレストンの殺人≫を読んだ妄想と現実をごっちゃにして殺人犯にして陥れようと虚しく画策するあたりの、凄まじさ、節操のなさを見よ!人間として最低である。
 これに先立つ物語の仔細を整理しておくと、最初の頃見知らぬ都市で苦労するルヴェルを何かと気遣うアリアドネの存在があった。しかし実際に付き合ううちに美貌の妹の方に魅かれてしまう。姉の方の物語を何とかしなければと逡巡しているうちに妹の方はさっさともう一人のフランス人、来て間もないホテルマン・リュシアンに奪われてしまう、或いはそのように思いこむ。それで慌てて軌道修正するのだが既に時遅しでアリアドネの方も先ほどの親切な友人ジェイムズ・ジェンキンズに奪われる、或いはそのように思いこんだだけかもしれない、アリアドネの恋情にしても主人公ルヴェルがそのように思いこんでいるだけかもしれないし、異国の地にあって不如意をかこつ者への同情をルヴェルが恋愛と勘違いしただけなのかも知れない、全ては工業都市ブレストンの霧と闇の中であって確かなことは何も解らないのである。

 さて少しも良いところのない小説のようであるがその魅力は何処にあるのだろうか。実は≪アリアドネ≫の神話を通じて語られる、灰色の都市ブレストンの絶望と貧困の底から仰ぎ見られるように幻想として出没するギリシアクレタのイメージにある。都市とこの世を破壊したいと云うアナーキーな欲望の底から仰ぎ見られる地中海世界清明さのイメージにある。ヨーロッパ人の根深い精神構造を造形化しえたと云う点で幾度かの再読に堪える作品になりえているのである
 この点は、ローマの魅力と一体化して語られる『心変わり』においても変わらない。あの小商社のパリ支店長の俗物にはローマの空と一体化した恋人の魅力をパリに持ち帰ることはできなかった。同様にジャック・ルヴェルも、工業都市ブレストンの霧と灰の彼方に幻視したクレタの空の蒼穹の破片を持ちかえることは許されなかったのである。振り返ってみれば善人ばかりが登場する物語である筈だった。それを殺人劇まで捏造し、大事な友人や知人を殺人劇的妄想の世界に巻き込む愚かさ、その自分自身の行動の滑稽さ、手前勝手な行動原則の恣意性を小説の終わりごろになっても気が付かないままこの小説は終わっている。しかも都市ブレストンの知人たちはルヴェルの被害妄想を妄想であるがままに無限の同情心を持って許してくれていると云うのに!実に苦い小説であると云える。苦い小説であるがゆえに人間の愚かさをまるごと含んだ小説として、都市ブレストンの一年間の、ジャック・ルヴェルがであった様々な事件、事件の捏造を通じで出会った登場人物たちの様々な折々の表情が、まるで回想のスクリーンの背後からある種の哀調を帯びて炙り出し絵のように、クレタの青い空を背景に影絵のように浮かび出て来るのである。

 なお、あのギリシア人を見よ!のエル・グレコクレタ島の生まれである。灰色の空に中にビュトールが幻視した地中海の空をわたしも幻想してみたいものである。

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