アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画『地下鉄のザジ』――青春のパリへの挽歌 アリアドネ・アーカイブスより

映画『地下鉄のザジ』――青春のパリへの挽歌
2013-04-15 18:15:30
テーマ:映画と演劇

http://ecx.images-amazon.com/images/I/41rKs-BnlbL._SL160_.jpg  http://www.zaziefilms.com/zazie/news/images/MARUC2.jpg

監督:ルイ・マル
1960年 フランス映画
日時:2013・4・14
場所:福岡市総合図書館ミニシアター

・ この映画、造ったのがルイ・マルでなければみなかっただろう。この映画、他のマルの映画もそうだが、何となく時代性を逸しているようにわたしには感じられる(晩年の『さよなら子供たち』は哀切で好きだけれども)。おまえは偉大なヌーヴェルバーグの伝統と映画史の常識を知らないのかと云われそうだが、パリの美しい映像の数々がスクリーンの上を流れるのを見ながら、パリとフランスと云う音韻の響きが特別な意味をもっていた時代にこの映画を見たらなどんなに良かっただろうと思った。パリのエッフェル塔やパサージュと特別に呼ばれるアーケード街、それに最初にサジに幻滅を与える地下鉄のアールヌーヴォー風のシャッターも、地下鉄のストで車が氾濫した街区を車と観光バスが走り抜ける風景もどんなにか美しかっただろうと、過去形で考えてしまう。要するに過去の映画、今日ではノスタルジックな玄人の映画なのである。

 この映画はまた、何の予備知識もなくドタバタギャグを楽しめると云う意味でも玄人の映画である。無声映画時代へのオマージュとも云えて、実際にパリの市街をうろつく場面ではチャプリンそっくりの人物が絡んでくる場面もある。(レストランの女給さんマドレーヌと陽気な未亡人≪メリー・ウィドー≫はフランス印象派、すなわち古き良き時代への挽歌であるように思われる。)
 また、パリでザジの二日間の休暇を引き受けてくれる親切な伯父さん夫婦のキャラクターは、本職は夜警で天職はナイトクラブでラインダンスを踊ると云う奇天烈な伯父さんのパフォーマンスと、一見これは正反対の実にクールな伯母さんの組み合わせは、もしかしたら58年のマルの代表作『死刑台のエレベーター』の、あの悪漢二人のパロディではなかろうか。あの映画ではジャンヌ・モロー演じる冷徹な人妻と弱気の戦時中の英雄のコンビが見事に完全犯罪に失敗する様を描いていた。この映画で親切な伯父さんの妻を演じる美しすぎる女優さんは終始無言無表情で、例えばこんな風である。↓

 

・ ブルーがかった鉢巻!が実によい。そう云えば60年代以前は鉢巻と云うかヘアバンドと云うかこんなファッションが流行っていたな。それはともかく、親切な伯父さんが限りなく女性化した肥満児であるとすれば、スレンダーな奥さんはバイクを乗り回しサディストめいた印象を与える。性差の逆転と云う意味でも、やはり『死刑台のエレベーター』を思わせるのであった。

 そう言う意味でわたしはこの映画は玄人の映画だと思うのだが、玄人が絶対に言えない思い付きを書いておこう。
 この映画は平和な時代のパリの喧騒を他所に戦時下の静謐を懐かしむ映画である。映画のなかでも幾度か戦時下のパリが郷愁を持って語られる。例えば、――戦時下のパリは静かだった、空中爆撃を除いて、とか。爆撃機もあとではイギリス機だったことも解放時の感激とともに登場人物の口から郷愁をもって語られている。

 『死刑台のエレベーター』は何時の世にもあるピカレスクロマンではない。戦後のヒューマニズムに相いれないものを感じる思想的確信犯である人妻を演じるジャンヌ・モローと、戦時下は勇猛果敢で的確な判断を下し得た英雄が平和な時代では一転して優柔不断に何もなしえないと云う、要するに絵にかいたような時代遅れの二人の失敗談だったのである。
 つまり『地下鉄のサジ』と云う名の、パリ案内風の映画の底にあるのは、地下鉄のストライキ、それが原因で起きたパリの街の車と人の大混乱を通じて日常が非日常と化した、当時鮮やかに「戦後」と云う時代を過去のものとしつつあった戦後社会への呪詛なのである。日常性と云う名のびくともしない平凡さへの呪詛なのである。(『鬼火』にはとりわけをれを強く感じる)。その願望は最後のレストランでの乱闘の場面に現れる。ヒトラーが茶化され、安手の舞台の書き割りのような「地下鉄のサジ」と云う舞台設定そのものが徹底的に破壊される。乱痴気騒ぎの破壊が終わって一夜明けると、初めてサジは母親が待つ駅に向かうのだが、その時はあんなに望んだことなのに眠っていて地下鉄乗車を経験できないと云うイロニーが付きまとう。最後に母親に初めてのパリはどうだったかと感想を聴かれてサジは言う。”疲れたわ”と。そして次のようにつけ加える。”なんだか歳をとったようだわ”と。まるで中年のおばさんのようではないか!

http://europe.eigajiten.com/amesinobiai3.JPG 『雨のしのび逢い』のモロー
                             ジャンヌ・モローは映画の役造りのイメージとは違って
                             映画人としてはロケ地に数カ月も前にロケ入りし、
                             民家を借りきって普段の生活者の視線が充分熟成
                                 し風土が自分自身に馴染んだ段階で、ロケに臨んだと云う
                                 映画芸術とは彼女にとって神聖な行為だったのである。
                                     
 これと似たようなセリフを『死刑台のエレベーター』のあの無敵の女は言う。”歳をとるのは怖いわ”と。まるで自分にダメージを与えるのは時間以外ないかのような言い方だが、完全犯罪が無残な失敗と化し、自分たちの犯罪と悪行が暴かれたのちも怯むこともなく時代を見下し、軽蔑の姿勢をこの悪女は隠さない。彼女が悪びれないのは犯罪の美学に固執するからではなく、自分たちを葬り去ろうとしているプチブル的な道徳観に我慢がならないのである。

 その確信犯的なモローの静謐さが、この映画では終始ドタバタを呈する映画劇のなかで唯一自由の女神のような静謐さを保つ、美しすぎる人妻に”引用”されているのだと思う。任務貫徹のためにヘルメットをかぶってよりのパリの街を疾走する姿は、私には戦闘帽を被った特攻隊の若者のようにみえた。

 これももう一つ語られないことだが、ホントかウソか、ザジの母親は亭主殺しの完全犯罪者であることがザジの口から語られる場面がある。アヴァンチュールに現を抜かす能天気な母親のように見えながら、司法と警察に追われる家系だったのである。その家族の温かみを知らないこましゃくれた娘に夢の啓示のように与えられたパリの二日間、パリはまるで聖家族のように優しかった?それがこの映画のもう一つのテーマである。

 解放期のパリ、恒常性の外皮が破れてかりそめの休止期間にあったパリ、不可能なことが必ずしもそうとは思えなかったパリ、終戦後の熱狂と浮遊するシュールでピカレスクな夢、すなわちパリの青春は終わったのである。