アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ウッディ・アレン映画『人生万歳』アリアドネ・アーカイブスより

ウッディ・アレン映画『人生万歳』
2013-04-20 13:19:07
テーマ:映画と演劇

  


・ 昔ハリウッドの映画に、”素晴らしき哉、人生”と云うのがあったような気がするが残念ながらみていない。この映画がその種のアメリカ映画の聖なる映像に似ているかどうかは、この映画の中で中ごろにある次の場面を考えてみたらいい。

 あらすじは省略するが、ひょんな偶然から同居することになった”元ノーベル賞候補”(自称)の皮肉屋の物理学者と、21位歳のハイスクールも卒業していない南部娘の同居生活に中で、娘が生活のために始めた”犬の散歩”のアルバイトの途上で出会った、犬を連れた青年に口説かれて、夜のダンススタジオ?に誘われる場面がある。当日、日本でも見る様な風景が、開始前のスタジオの前には若い人たちの行列が出来ている。彼らの立ち話を聴いていると、この種の催しは初めてだと云う田舎娘を囲んで場が少し盛り上がっている。さて、映画はディスコの場面描写は簡単に省略して帰って来てから同居中の老人に娘が報告するくだり。――詰まらなかった!、疲れた!、だって彼や彼らは、愛や、人間や、人生と云うものが大好きだったから!と云うのであるが。さて、田舎娘がNYで初めて誘われたデートの一部始終と決算はかくの如きものである。実を言うと、田舎から出てきた素朴な娘はこの間、すっかり皮肉屋の老人の人生観や世界観に洗脳されていて、可愛い顔に似合わず、人生に起きる事象は仮初であるとか無常であるとか、光速を超えては存在しないこの世の事象は全て相対的であるとか、宇宙の無限の光源の中に消える愛の儚さなどを、デートの相手である若者の前で口走って相手を唖然とさせるユーモラスな場面がある。

 愛!、人間愛!、家族愛!、人生!、そして平和も!わたしたちはこの美しいイデオロギーを口にすることで如何に窮屈な生き方を自分自身に強いていることか。戦後のアメリカ帝国主義の圧倒的な強さは物量作戦にあったのではなく、実は彼らが愛の宣教師であったことにもよる。物質的な実力だけであったなら、これほそ強い拘束力を発揮することもないであろう。事実先の大戦時に於いて皇室の一部も介在した軍部の内部局では、日本の敗戦はミッドウェー以降の情報よりも、内密にみた『風と共に去りぬ』の鮮明な画像の鑑賞時に、かかる映画を戦時中に造れる国に勝てるわけがないと云う実感を強烈に齎したと云う。
 この映画に於いても、ヒロインの名前メロディをメラニー問い間違えることで『風と共に去りぬ』に言及している。老人は言う、メラニーは最低の男である、とか。要するに愛と勇気、人生の矜持と云うような言葉が大嫌いなのである。

 これについては、映画の導入部とも云える最初の場面、NYのダウンタウンのカフェバーの屋外テーブルで談笑する老人と友人たちの談笑する場面、ことあるごとにアメリカ的価値観に対する過激な攻撃性を発揮する話題にうんざりした友人たちが示す反応に応えて弁明する場面がある。つまり、自分が愛や、人生や、人間性や、平和やと云うような言葉が嫌なのは、その言葉そのものではなく、それが抑圧しているものの有害性について、精神的汚染の程度については一言も語らないと云う点にあるのだ、と。とりわけ、その中でもアメリカ的価値観として卓越的に主張されるのは、祖国愛、宗教、平和、そしてこの映画では直截的には言及されなかったが開拓者精神、と云うものがあるだろう。

 この映画の後半は、アレンのメッセージ映画に相応しく、いかにもアメリカ的と想われた右翼的な人物たちが一転して自由な生き方に転身を遂げ、最後は大晦日のパーティーに一堂が会して新年を寿ぐ、と云う内容になっている。具体的に言うと、自慢の娘を国内の様々なミスコンに出場させて賞を取ることを生きがいにしていた母親は、目覚めたカメラマンとしての素質に目覚めていまは二人の男性と同居して愛のトライアングルを生きる新しい女性に変身している。愛人と出奔後後悔しよりを戻しに来た父親にその母親は展示会の会場で云う。釣りやゴルフ、スポーツ観戦にしかない興味がないあなたとは、知的な格差?を感じる、もはや自分は昔の自分ではないのである、と。その母親の親友と駆け落ちしてしまい、いまは素気無く振られた失意の父親の、そのアメリカ的人間像にも救いの手が差し伸べられる。彼を救うのはなんとゲイの男性である。一連の救済劇は主人公である老人にも訪れる。母親が画策したイギリス人舞台志望の青年との偶然を装った”お見合い”の場面が”ユニクロ”であると云うのも笑わせるが、お互いの年齢に相応しい関係に落ち着き、その結果老人とは関係を解消すると云う自然な結果を感受することになる。
 解消に向かいつつある老若の奇妙な関係とそのピグマリオン風の――あるいはロリータコンプレックス風の――ドラマを回顧して老人が束の間の時間の経過を形容する言葉、”知的格差結婚!”であったと云うのは爆笑ものである。とはいえ、老人は仮初とはいえ束の間の時間が過ぎ去ったことに対する失われたものの大きさを実感するのあった、と回顧的に書くことがこの場合相応しいだろう。
 しかしウッディ・アレンの映画では捨てる神あらば拾う神が必ず存在する。再び自殺衝動と根暗生活に復帰した老人が最後に窓から身を投げた時に、下を通りかかったのが女占師を自称する女性で、またもや本人はこのたまさかの偶然に生かされてしまい、迷惑をかけたお礼にディナーの誘いを有難くも拝受する運命とはなり、二人の間にはほのかな愛もが!ああ!人生何が起きるかわからない、人生、これ全て偶然!ありふれた結論だけれども、けだしあの無垢な娘との出会いだけは偶然と云えただろうか。

 この映画の優れている点は、母親が出現して以降のドタバタ劇の後半よりも、ひよんな経緯から、若い娘が皮肉屋の老人と同居生活を始める前半にある。ハイスクールをろくに卒業もせず田舎から出てきた娘の、凡そ知性とは無縁な娘の評価は、最初は10点中3点だと頑固老人の眼には値踏みされる、それが時を重ねるうちに評価は少しずつ変化を遂げ、無知だけれども天使のような娘の無垢な性格を知るに従い次第に上昇し、最終的には8点になり、遂には娘の懇願に応えて登記簿上の婚約をしてしまうまでになる。この間変化したのは食生活もそうである。長年老人が食していたインスタント食品に変わりザリガニ料理等の南部の手料理、田舎料理がこれに取って代わる。老人の隠された持病である暗闇恐怖症と自殺願望も娘の無私な情熱に次第に癒され昇華される。この世に起きる事象、一連の進行中のドラマの過程は老人が特異とする量子力学不確定性原理によって巧妙に説明される。この世に確かなものは何一つ存在しない、観察される事象は観察者相対的な位置に寄って光源の質が持つ力によって変質する(違って見えると云う意味ではない)、そしてこの世に光速を超えて生起する事象は存在しない、しかし老人が嫌いな愛や人生や人間性と云う言葉を用いないならば、無私な純粋性や健気な献身というものはこの世を超えた事象ではないのか!

 この映画は観終わってハリウッド的ロマンティシズム世界のパロディと云うよりも、『クリスマスキャロル』の現代への翻案であるように思われた。歳の瀬を迎えて何事にも懐疑的になった吝嗇で意固地な老人が不意の訪問客、三人の亡霊たちの話を聞くうちに豪華な観念のクリスマスの贈り物をいただくと云うディケンズ原案の格調高きイギリス映画である。あの映画で感動的なのは、実は教訓臭い亡霊たちの体験談にあるのではなく、障害児を抱えた貧しい家族の思いやりにある風景にある。障害を持った子供だから可哀そうと受け止めるのではなく、精神と魂の清らかさはこの世ではこうした”障害児”と云う形をとらなければならないのではないかと思わせるほど、ディケンズの姿勢は畏敬と敬意に満ちている。
 実はアレンのこの映画もそうした”畏敬”に類する場面が描かれていて、単なるドタバタのラブコメディではない。不意の、招かれざる訪問客である娘が齎したたまさかの偶然を、おそらく亡命者であろう自分自身の偶然と、南部の保守的な田舎に生まれた者同士の、時系列は異なっているけれども二人の人生のたまさかの交錯と云う、何億分の一のまた何億分の一と云う偶然の確率とは、実は偶然であると云うより必然性に近いのである、それは奇跡に近い必然性を感じさせるほどの”確率論的な事象”なのである。アレンに倣ってこの世には確かに確実なもの、不易なものは何一つ存在しない、全ては偶然性に満ちていると云えるけれども、宇宙論的な確率でみるとこの世に生起する事象は何ひとつとして偶然性の驚異!を感じさせずにおかないものはない。量子力学不確定性原理現代社会の宣教師がこの映画の最後に確認するのは、古代ギリシアアリストテレスにも似た驚異と畏敬の念だったのである。

 最後に実存思想との関係で云えば、この世に偶然的にあるあり方は同様に神の存在を前提にしない。人間は偶然から必然的存在への旅人だとすれば、対自としてのあり方は即自に向かう無限のあり方の中にある。無とはかかる即自と対自の在り方の間に遠く淵源する。人間が無であると云う意味はそう云う意味である。しかし人間の本質が無であると云うことはサルトルにとっては逆転された意味に於いて一切の自由の根拠でもあり得た、ここでは一切が許される、と彼は言う。すわなちわれわれは自由であると!あるいは自由であるべき罰を聖痕のように額に受けた存在である、と。われわれは自由と云う名の流刑地に晒された自由であるべく運命づけられた存在である。しかし根拠を欠いた自由とは無意味であると云う意味ではなく、後付けに価値を主体的に選び取ることが出来るような自由、自由であるとは、悪を欲することができるばかりか、ことによると善をも欲することが出来る両義的存在なのである。そこにサルトルアンガージュマンの希望を託した。
 一方、ユダヤ人アレンにとっては、この世の仮初の在り方は偶然的で如何なる根拠も欠くものだが、それは自由の根拠であるよりは、視点を億光年の宇宙論的な世界に変換すれば、この世に生起する事象のうちの何一つとして、偶然と云うには余りに稀有な奇跡的な、偶然性と偶然性との交叉が齎した準必然性に近い事象が起きている存在の現場を確認することができるのである。そこから事象に対する敬意と畏敬の感情が生まれる。この世に何一つ余計なものは存在せず、最後に老人が云うように「なんでもありがこの世の人生なのである!人生万歳!」