アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『谷間の百合』にみるバルザックの手法 アリアドネ・アーカイブスより

谷間の百合』にみるバルザックの手法
2013-04-23 23:37:59
テーマ:文学と思想


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・ 『谷間の百合』はナポレオン戦争前後の慌ただしい王政復古の時代を背景に描かれている。これが単に登場人物の時代背景として在るだけではなく、個々の人間の動きに影響を与える。当たり前と云われるかもしれないが、それはこう云う意味である。近代小説の登場人物たちは際立った特徴を持っている。人は環境の中で様々な選択をしそれが外部に影響を与えることもあるが、大体に於いて近代小説の主人公には”人格”と云うものが備わっていて――肯定的な意味にせよ、否定的な意味にであれ――大体に於いて読者はこうした場合はこのような行動をとるであろうと思いながら読んで行く。バルザックが少し違うのは、それはその通りなのだが、その偏差の幅が時により登場人物の恣意性を利用する形で、激動の時代背景が影響を与え、反作用として小説内部世界では正反対の意味を帯び、現代小説の恣意性とは違った意味で物語に変化を、逆転劇を与え、それが持つ不自然さを免れさせているのである。その代表例がモロソーフ伯爵、――谷間の百合ことモルソーフ婦人アンリエットを無意識的な精神的な虐待を加えるその夫たる伯爵その人である。モルソーフ伯爵は革命によって亡命を余儀なくされた貴族として設定されており、長年月に及ぶ苦労が性格を捻じ曲げ無意識のうちに不満の捌け口も求める不平屋として設定されている。つまり性格的な不安定さが思想と行動の恣意性を強める与件として与えられており、にもかかわらず沁み込んだ王党派貴族としての理想は時に近代主義的な人間像の利害打算を超えた行動を齎すという意外性の根拠となっているのである。意外性とは近代小説の場合とは異なり、あえて失意の亡命貴族と云う設定をすることで当人の情緒不安定から来る選択の駒と、背景となっているフランス革命後の激動の時代が齎す不安定な選択の駒を掛け合わせた倍数となる。つまり人間というものがあって対象的客体としての時代には働きかけると云うよりも、時に歴史と一体的なようなところがあるのである。換言すれば登場人物の個性が、個的な人間像と様式的な歴史的な人間像の二重化された複合化された人間そうととして描かれ、それが小説に独特の深みと幅を与えているのである。

 それでは『谷間の百合』は歴史的絵巻かと云うとそうでもない。空想上の、あるいは歴史的に実在する人物が同一平面上に出て来ると云う意味では大河小説のようでもあるのだが、他方ではアンリエットことモルソーフ伯爵夫人のこの世のものとは思えない清純さと崇高さについても、詳しくは分からないけれども、ジャンセニスムに淵源するような宗教的理解の化神と云う意味で、単なる作家の創造、恣意的な空想上の産物と云う訳ではなさそうなのである。具体的にはルイ=クロード・ド・サン=マルタン神秘主義思想が背景にあるとされるが、私はこれについて詳らかにしえない。バルザックの記述を読みながら、アンリエット・モルソーフ伯爵夫人の言動を読みながら近世フランスにおける神秘主義の系譜をかくもあろうかと想像するばかりなのである。
 また夫人の神秘思想は単に観念的であるばかりではなかった。大きな意味で王政が崩壊し共和制へと移行していく19世紀と云う激動の時代にあって、嘆くだけではなく、所領を子孫に伝え領国を維持していこうと云う経世の学の達人でもある。その経世の達人が同時に愛の達人として、年端も行かない没落貴族の末裔である主人公を何とか盛り立ててひとかどの男にして行くと云う、教養小説、立身出世の物語でもある。
 バルザックの不思議さは、かくも敬虔な宗教的神秘思想が同時に愛の予見者でもあり同時に時代を見据えた経世家でもあると云う複雑な人間造形である。最も現実的、物質的なレベルから、目に見えず手も触れえない宗教や見神の、愛の神秘や奥義を同時に描くと云う、神秘的なレアリスムとも云うべき手法を達成しているのである。

 しかしそれにしても読む通すのに難しい小説である。主人公のフェリックス・ド・ヴァンドネスには明らかにジャン・ジャック・ルソーの『告白』を感じさせる。年齢差のある母性愛を基調とした愛の物語であると云うこともそうだが、後年無慈悲にも天使のような存在であるヒロインを利己的な打算ゆえに死なせてしまうと云う酷薄さにおいてもこの両作は似ている。ルソーは半ばとぼけているのかもしれないが、ルソーを踏まえたバルザックの場合は十分自覚的であると思う。作者もまたフェリックスを完全には許さない。モルソーフ婦人の長女マドレーヌの視線が全てを語る。しかし他方に於いてバルザック自身の自伝的要素をもって造形されたと言われるフェリックスを除いて誰ひとりアンリエットの孤愁を理解した者もいないのである。死者は弔いに相応しいものを「もがり」のも主として指名するものだが、フェリックス以外に相応しいものがいようとは想像できないのである。本を閉じて懐かしいような思いでトゥールとロワール川支流の谷間の風景を思い浮かべるとき、多分私たち読者は涙に潤んだフェリックスと同体なのである。

 バルザックの愛欲を描く描写も節度を保ったものである。それが反対に精神的なものと肉体的なものとのせめぎ合いを現代の読者に見えにくくしている面も確かにある。この小説は単なる純愛小説ではない。至る所に両者の相克は描かれている。場合によっては彼らの禁欲主義が必要以上に肉体的な愛欲の炎を燃え上がらせ、肉体的な弱りに乗じて出現するかの如くである。バルザックは二人の過度な精神主義が過激な愛欲と苦悩の温床となったことを認めている。これは変わり者のモルソーフ伯爵について云われたことだが、老人は若いころは人間的な様々な欠点も世俗の義務やその他の非拘束的の条件ゆえに目立たないようにされていたのだが、加齢は様々の世俗的しがらみから離脱する過程で、その人間が持つ人間的な欠点を寄り露骨な形で発揮させる、と書いている。容赦のない人間理解である。これは自分なども反省しなければならない点である。そして同様の悲劇は、臨終近いあの清純極まりないアンリエットの身にも起きるのである。バルザックのリアリズムは例外を許さない。

 読者としては、これはバルザックに出来れば書いてほしくなかったと思う。もちろんバルザックの描写は節度あるものだから読み過ごしてしまいかねないようなところもある。しかし反面節度ある描写であるがゆえに、最後にあの天使のような”谷間の百合”ことアンリエット=モロソーフ伯爵夫人を襲った、精神と肉体の相克のドラマは胸が痛むのである。なにゆえかくも行い正しい清貧の権化のような夫人をかくも汚辱に満ちた腐敗の異臭を放つ荒野の風景の中に、堕天使のような形で死なせなければならないのか。私は神をのろう!
 『谷間の百合』には、カソリックにおける臨終の秘蹟、終油の欺瞞性についても描いているのかもしれない。精神と肉体、天使と堕天使の闘いが心の平衡を維持できないほどの混迷の度合いを深めつつ破局をも予感させたとき、カトリックの司祭と臨床の待治の主治医との間に素早く交わされる目配せの意味するものは何かしら私たちの心を凍りつかせるものがある。弔いの儀式とは所詮生者のための都合ではないのか。本来喪の儀式とは死者の霊魂より名指された者がもがりの斎主となり、もがりの始まりも終わりも生者の側の都合では決められていなかった。喪が明けるかどうかは死者と斎主の沈黙の会話によって果たされていた筈である。魂の現存在の時制とは現在の身があるわけではなく、注連縄で区切られた死者の霊前で現在-過去-未来の三者が一堂に介して鎮魂の儀が執り行われたはずである。わが国の古代記紀万葉時代の”もがり”と云う儀式にはそうした普遍的な古-人類の死生観の凝縮した姿の微かな記憶の断片が保存されている。死が生者側の都合を司る儀式として特権的に分化し、それを巧みに権力側が支配の装置として組み込んだ時から宗教と呼ばれるものの堕落の歴史が始まった。つまり死を支配の道具として利用すると云う祭政一致の歴史が始まった。勿論、この本にこうしたことは何も書かれていないけれども、逸脱するままに、バルザックの登場人物に現れた死生観を観ながらあれこれと放埓な夢想空想妄想を繰り返したのであった。

 ともあれ、バルザックは純愛物語を理想化することなく最後まで語った。愛の使徒、愛の殉教者フェリックスもまた怯むことなく夫人の変容を見届け、夫人のか細い消えなんとする最後の呼吸の余韻を、まるで百合の花咲く谷間に響く早朝の小鳥の歌声を聴くように聞いた。それが例え欺瞞の幻聴であったにしても私はフェリックスを非難しようとは思わないのである。
 これがフランス文学の香気というものか!その実力のほどを遺憾なく発揮した古典的作品の一つである。