アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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トマス・ハーディ『帰郷』・1 アリアドネ・アーカイブスより

トマス・ハーディ『帰郷』・1
2019-02-25 23:22:25
テーマ:文学と思想


 悲劇と云えば云えないこともないのだが、主要な登場人物たちの大半が失意の中で死んだり、志しを得なかったり、それらの群像たちが描く不気味な影絵のような物語が、他方では作者によって名付けられた南イングランドの古き名称――ウェセックスの四季を舞台に描かれている。物語は五月の五月柱祭から一年後の同じ祭りのころに終わる。

 一読して不気味な物語だと感じる。小説の変則性は、表題「帰郷」で予告されていたはずの主人公クリム・ヨウブライトが開幕早々から引き延ばされて百六十ページを過ぎたところからようやく、噂のなかに登場することにも表れている。作者はその前段を使って、延々とエグドン荒野と呼ばれる風景の陰鬱な描写と、クリムを囲む登場人物たちの謎めいた姿かたちの描写に終始するのである。
 トマス・ハーディの小説作法の特色は、『テス』の場合もそうであったが、近代文学に固有な作者の全能性が疑わしいと云う点にある。こういうことは今まで誰も言っていないと思うから言うのであるが、物語がここ、ここに至って、大団円を迎えたあとの悲劇的結末によって、死すことによって明確になった人物像を確立した後においても、なお評価は一義的には決定しえないと云う感じを持つ。それは物語が複雑で多様性に富んでいるからという理由ではなくて、ストーリー性が持つ枠組みは極めてシンプルなのに、主要登場人物やそれを背後から後押ししている作者の見解に十分に納得できたとは言えない、という感じなのである。それはこうも言い換えて見ることができる、――すなわち、作者が抱いている個人的な倫理観や価値観に十分に同意できない、と云う意味である。つまり作者の思想や思惑と、書かれた作品の間に完全には一致しないものを感じるのである。
 不気味さは、イングランドと云う陰鬱な気候が持つ歴史や風土、物語の枠組みや組み立て方にあるだけでなく、登場人物が持つ不明瞭で不明朗な人物像の不決定性、と云うことも関係しているのかもしれない。
 登場人物をひとりづつ見てみたい。
 主人公である、パリから「帰郷」してきた男、クリム・ヨウブライト、彼には都会帰りの村の紳士としてある種の後光が伴っている。こういうタイプにはいけ好かないパーソナルが多いのだが、彼もその通りで、親の言うことは聴かない、一目ぼれした恋人を婚約に導くやり方は強引で、自分自身が無意識のうちに前提している価値観や倫理観の絶対性について反省する素振りは皆無なのである。彼は結果的に母親を死なせ、恋人を死なせ、教師になって人々を導くと云う希望も肉体的な事故ゆえに尻すぼみとなり、田舎の説教師として安住の道を見出す。作者はクリㇺのことを「人生は耐え忍ぶべきものだ」としてその禁欲的な生き方を大いに買っているのだが、見回してみれば人生の半ばを過ぎた頃の彼は彼を相手にしてくれるものは誰もいない、という状況なのである。その落魄と云うか寂寥の場面は、末尾近くの従妹のトマシンの婚約が果てて取り残されたわが家の我が部屋に見出す孤独感に現れている。つまり第三者の眼で見るならば、幼なじみの従妹に婚約も申し込めないほどの男性として魅力を欠いた存在になり果てているのである。自分にできることとは、芝刈りか無償でする野外説教しかないと云う生き方を、一人息子の成長のみを生きがいにしていた死んだ母親は喜んでいるのであろうか。ここまで遣ること成すことが上手くいかないとなると、彼の話しにはどこか嘘があるのではないのか。証拠があって言うわけではないが、「帰郷」する以前に彼が花の都パリで勝ち得ていたと云う宝石商としての華々しい成功と云う情報も疑わしくなる。
 次に賢夫人として誉れも高い、クリㇺの母親であるヨウブライト夫人、明察と正しき判断の権化のような彼女の姪と息子に係わる判断はことごとく正鵠を射るのだが、結果からすれば認識に於いては誤っていても、誤りを認めつつ人は成長していった方が良かったのではなかろうか。
 ヨウブライト夫人が後継者として面倒を見ている薄幸の感が伴う、親亡き子の姪のトマシン・ヨウブライト。美人であるけれどもお人形さんのように意志を持たない娘は、色男のウィルディ―ヴの思惑に翻弄される。彼の村の美女ユースティシアとの恋の諍いから腹いせのため結婚することになるのだが、婚姻証明書の不備などと云う些細な理由から人生の門出としての結婚式は延期されるし、果たしてワイルディ―ヴは結婚を望んでいるのだろうかと云うどっちつかずの不安のなかに晒され、最終的には見せしめのために手に入れたようは結婚生活は当然幸せではない。色事師の悪漢ワイドディ―ヴはユースティシアへの思慕を押さえることができず、ずるずると二人の関係が復活するかに見えたところで、ユースティシアは自己処罰の暗い情熱に駆られて大雨の夜、池に身を投げる。彼女を救うためにワイルディ―ヴは水門に流される激流のなかに飛び込み、同様に彼女を愛していたクリㇺもまた身を投じるが、ワイルディ―ヴは水死し、クリㇺは奇跡的に救助され蘇生する。――こうした『帰郷』を大きく動かしている運命悲劇擬きの筋書きからは、彼女がその外部に想定され疎外されていると云うことが特徴なのだ。彼女は主体的にドラマに参画できないし、かといって無関係でもなく、被害者として放浪されるだけなのである。そんな彼女がワイルディ―ヴの子供を身籠り子育てを女の仕事として自覚する頃から主体をもった女性へと変貌する。誰も自分には関心を払ってくれてはいないと云う疎外感が、ディゴリ・ヴェンの直向きな、伏流水のような控えめな愛情に絆され、癒されて彼との愛情生活を最後は勝ち取ることになる。万事が悲観的なこの物語のなかで最後には唯一光を手にすることができる女性である。彼女が最終場面で見せる驚くべき変貌、彼女との婚約を望んではいても身分違い故に憧憬は憧憬のまま半ば満足と、燃え尽きることのできない恋の不全感の間を往復しているかに見える男を励まし自分の方に向き直させる、むしろ最後は恋を主導しているのは自分であると云う意識すら感じさせる変貌は劇的である。神は彼女のよう謙虚で謙りの精神の持ち主を愛されるのであろうか。目出度し!
 次にスーパーヒーローの如く登場してきてヨ―ブライト家の「正しい家族」に味方する、不思議な正義の使者としての紅柄屋の男、同時に彼は先に書いたように最後は彼は愛の長い潜伏期を経てトマシンの愛を勝ち得る。とは言え彼がどういう理由で義侠心を振るうのかよく分からない。先に述べたのようにずいぶん昔からトマシン・ヨウブライトに好意を抱いていると云うのがその理由らしいが、謎のようにして出現して風のように去っていく神出鬼没の人物が、最後は仮面を脱いで目出度くママシンにプロポーズをする、筋の組み立て方が不自然である。
 以上ワイルディ―ヴ家に係わる善意の人物たちについて語ったのだが、彼らが中世的な価値観やキリスト教的精神の範疇にあるのに対して、二人の不可解な恋人たち、ワイルディ―ヴとユースティシアは違っている。ひたすら自分が持たないものに憧れ、憧れが満たされると無いもの、失ったものを求める彼は封建制の時代の終わりが生んだロマン主義者の先駆である。しかし彼に対する作者の扱いは不当なもので、彼によってなされたとされる「罪業」が死を持って報いられなければならないほどのものかどうかは疑問である。彼の咎とは、満たされぬユースティシアとの愛欲生活の中で腹いせのため無垢な娘トマシンを手段として利用したことであり、結果として結婚生活は幸せなものとはならなかった。こんなことはよくあることである。にも関わらず全巻を通じて悪しざまに語られる彼が最後に真価を見せるのは大雨の日に沸騰するように泡立った激流に身を投じたユースティシアを救うために飛び込む場面である。現場に居合わせたクリㇺは一瞬冷静で合理的な判断をする余裕を持っていたが、彼は判断以前に敢然と飛び込んでしまっていた。この長きに渡って愛とは何かについて逡巡を重ねた男は、愛する女の死への憧憬のなかに自らの愛を見出したのである。この世俗的には不実な男は、この好色漢、田舎のプレイボーイは死ぬことによって自分自身が何であるかを最後に見出すのである。
 水死したヒースの女王ユースティシアと彼らの遺体を並べて語る作者の描き方も不誠実である。これだけ愛し合った二人であるのに、何の同情心もなく二人は引き離されて安置される。ヒースの女王王女ユースティシアを描く作者の筆致は宗教画を描くかのように光彩に満ちた荘厳極まる死者への経緯に基づいている。かかる荘厳図からは隔離された場所で、「一回り小さい」と作者によって表現されたベッドに彼は栄光も追悼の念もなく、放置される。悪漢の最後はこのようであると云わんばかりに。作者のロマン主義者に対する扱いは明らかに不当である。二人が生き方に於いて人生の表通りを歩けない人物であることは分かっている。死によってこそ、この世では妨げられた愛の成就をなしえた二人に私は一輪の小さな野の花を奉げてもよいと思っている。
 
 最後に本編の最も魅力的な人物、ユースティシア・ヴァイについて語らなければならない。彼女こそ、『テス』に繋がる、キリスト教渡来以前の自然なるものの象徴、ヒースの女王なのである。
 彼女が女王の品格を持つのは何も作者が「女王の素材であった」と保証しているがためばかりではない。彼女は自らの思慮分別を欠いた恣意的な行為が導いた結果に対して反省はするけれども決して言い訳はしない。
 彼女はヒースの原野が生んだ女王である。巻頭に描かれる不可解な篝火、野焼き行事の日に紛れてなされた、恋人を導くために、あるいは誘惑するために成された火祭りの行事は、炎やフェロモンを求めて夢想する生物界の神秘を彷彿とさせる。
 彼女が嫌いなのは、中世的なキリスト教的な道徳である。彼女は気位が高い元牧師の娘であるヨウブライト夫人から目の敵にされ、二人は和解のない対立劇を最後まで展開する。しかしこの場合もまた敵対的であったのはヨウブライト夫人の側であって、作者の評価は公平ではない。夫人がユースティシアを毛嫌いする理由は、彼女が結婚生活には不向きな女であると云うことに過ぎない。つまり明晰な判断力を噂され村では尊敬を勝ち得ている賢夫人が、その客観性に装って下す判断とは、それが息子の利害にとってどうであるのかと云うことだけに過ぎない。その結果彼女の助言や判断はことごとく正しいものであるにも関わらず、幸せな結果にならないのである。
 同様に、夫人の息子のクリムの不自然な博愛主義と愛他主義もまた彼女の共感するところではない。本当の教育を知らなくて教育者たらんとし、愛を知らなくて伝道者となる。作者が推奨し激賞しているかに見える彼の生き方と彼女の自然主義は決して同調することはない。もう少し言ってみるなら、彼の禁欲主義的な中世風の清貧を理想とするフランシスコ派的リゴリズムですら資本主義の倫理と論理の尖兵として間接的に取り込まれ得ることは、かのマクス・ウェーバーがかの有名な本のなかに書いているとおりである。資本主義とは大義名分を欠いた経済思想であるから、一見対立軸にあるかにみえるものでも「権威」として権力機構のなかに取り込んで十分に活かしうるのである。
 ユースティシア・ヴァイとは、産業革命が進行する中での、やがては淘汰されることになる自然的なものの象徴なのである。それゆえ彼女は偏狭なキリスト教的倫理と論理に排除され、やがてその片鱗を見せつけるかに見える近代文明と資本主義の曙のなかに死んでいかなければならないのである。

 私はトマス・ハーディ研究については無知で翻訳書の解説を幾つか読んだにすぎないのだが、どうも誤読されていると云う感じを否めない。
 その違和感は『テス』のところでも述べたが本作『帰郷』において、その不自然さは際立つようである。その理由は、当時のヴィクトリア王朝期の干からびた経帷子のような倫理観に禍されてハーディが本心を書けなかったということと、彼が同時代人として生きる上にかかる価値観と同調することなくしては彼の生き方そのものが意味をなさない、と云うこともあっただろう。イングランドと云う風土が、ルソーのように、単純に自然に帰れ!とは言わせない事情があったのである。
 如何なる人間も単に思想を抱くだけならば歴史と時代を超える。しかし文学が国民文学として説得性を持つためには、その価値観が古臭く誤ってはいようとも、歴史主義の様式に貫かれていなければならないのである。作家の個性が時代と歴史を貫くのではない。偉大な文学とはいっけん雑にみえようとも、時代の不合理と陳腐さと習合し、その俗性をある程度は踏まえていなければならないのである。
 トマス・ハーディの文学の魅力は作者の古弊で古くさい倫理観と、彼が教育や処世術を習得する以前に持つていた自然性、素朴なものがもつ憧憬と憧れ、南イングランドの所謂彼によって命名されたところのウェルセクス地方の大いなる自然主義との葛藤と対立が齎す鬩ぎあいにある。作者が単に彼が生きていた時代に個人的に望んでいたような読み方をすることは、反ってトマス・ハーディ文学の偉大さに対する礼を失することになるだろう。