アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画『恋人たち』について アリアドネ・アーカイブスより

映画『恋人たち』について
2013-05-19 14:37:39
テーマ:映画と演劇

 

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・ ルイ・マルの年譜を調べていたら1995年に亡くなっているのですね。しかも死没地は西海岸のビバリーヒルズで。配偶者はキャンディス・バーゲン。全てが意外であった。映画の内容から想像すると彼の生きる場所はフランス以外にないような気がしていたのである。
 思い出すだけでも『死刑台のエレベーター』、『鬼火』、それから『地下鉄のザジ』や『』、『パリの大泥棒』のようなコメディタッチのもの、『世にも怪奇な物語』のようなオムニバスもの、晩年の『さよなら子供たち』のような自伝的なもの、それぞれに巧みであるけれども映像詩としてのメッセージ性はあるけれども一流の芸術家としての固有の文体というか人生のテンポを刻むのには少々弱いのかなとい云う印象を持っていた。

 そう云う意味では1958年の本作はモノクロの映像的詩情と云う点ではその純化の程度において極限にある作品と言っているのではないのか、そう思った。戦後の一応の経済的安定が齎された社会にける夫婦の倦怠、貞操の観念と適当な恋のアヴァンチュールと云えばフランス映画の特技と言ってもいいのだが、マルの特徴は自らがブルジョワ階級の出自から来るインテリアやモードの描写にすぐれていて、それが無意識のうちに戦後支配的になった中産階級的な道徳の全体を意識せずして描きえているのである。同じ中産階級の道徳を描いてもその批評性においてヌーヴェルヴァーグの戦闘的な印象とは違うのである。
 この映画で描かれているのは地方の新聞社の社主を中心とするブルジョワ階級の様相であり、それとは一見対立するようなパリの有閑階級の自由な交際の雰囲気である。恋の価値をそれをアヴァンチュールと言い換えてその自律的価値を云い建ててみたところでそれがどうしたというのだろう。この段階でマルのこの映画は所謂中年男女の不倫関係を描いた映画の水準を超えているのである。ジャンヌ・モロー演ズルずる新聞社主の妻は正しくフロベールボヴァリー夫人の末裔なのである。この映画で一度として描かれることのない中産階級的な道徳、それを念頭に置かない限りボヴァリー夫人の行動を理解できないように、言外におかれた射すような戦後フランス社会で支配的な意味を持ち始めた中産階級的な道徳観を念頭に置かない限りこの映画を頽廃的な不倫ものと見誤る。だいたい”不倫”とは何だろうか。不倫とは何に対する不倫なのだろうか、そうした疑問が起きない場所ではこの映画は単に耽美的なモノクロのヌーヴェルバーグ的な作品の一つでしかない。
 この映画の今日においても見ることの可能な革命性は実は、言外に語られる中産階級的な倫理にある。それは戦後的な秩序が日常性と云う名の一種の不動性を獲得していくのと平衡関係にある。『死刑台のエレヴェーター』と『太陽がいっぱい』の違いは目的のためには手段を選ばない戦後的な価値観を持った男女が完全犯罪に失敗すると云う共通項にくくる事はできない。『太陽がいっぱい』に描かれたのはいつの世にもある有産階級の暮らしぶりに対する貧困階級の怨嗟である。格差は経済力として現れるだけではなく文化として現れるとき我慢できないものになる。格差は衣装よりも食に、とりわけ食をめぐるマナーに現れる。既に指摘されているところだが『太陽がいっぱい』の中で身分の違う二人の青年が会食するとき憎悪は殺人にまで拡大する。これはフランス革命以降の近代と呼ばれた時代の普遍的な現象と言ってよい。他方『死刑台のエレベーター』が描いたのは近代と呼ばれた時代が一巡し中産階級の道徳が単に一階級の倫理観を表現するのみではなく、広く社会の一般的道徳律として、戦前や戦中の情緒的不安定性を克服しつつある恒常性に対する犯行なのである。詰まらぬ相棒の優柔不断が原因で完全犯罪が水泡と化した時社長夫人を演じるジャンヌ・モローが漏らす造り笑いは倫理的な反省ではない。社会は彼女の犯罪故にではなく、”不倫”と云う価値観ゆえに許さないであろうと云うことがよくわかるのである。本当に冷酷なのは社長夫人であるのか戦後社会の方であるのか。『鬼火』においては幕切れにおいて男としても自らの矜持も殴り捨てて怨嗟の声が満ち溢れる。自分の弱さを全て社会や他者の所為に転化してしまう青年の叫びを女々しいと批評することは可能だが、そこまで自律性云々を云い追い込んで行く不可視の社会の冷酷な倫理観に言及すべきである。晩年の『さよなら子供たち』においてはユダヤ人の親友の一人ですら守ってやることの出来なかった自らと自らの社会の不甲斐なさを描いて哀切である。

 さて『恋人たち』であるがおそらくマルの最高傑作ではないかと思う。タイトルバックを背景にブラームス弦楽六重奏で始まるこの映画は、室内楽のように三つの部分から成立している。前段では地方都市ディジョンとパリを往復する社長夫人の夫婦生活と倦怠が描かれる。ディジョンを中心とするブルゴーニュと呼ばれるフランス西部地方の田園風景が美しい。レンガ造りの古びた田舎の町並みや遠く聳える教会の尖塔、波うつ麦畑を流れる澱んだ運河と並木道、清冽な飛沫を挙げる小川や堰のある風景。社長夫人の車の故障をきっかけに一泊の客となる中年の考古学者と一夜を過ごすブルゴーニュの自然の、この世のものとは思われない法悦感に震えるような月光に照らされて浮き出した超越的な場のような田園風景。そして最後の家を出奔するに至るあっけない顛末。マルは社長夫人の心の動揺や葛藤を描かない。彼女の決断は闇の中の月光に照らしだされた川に架けられた菰籠の中の飛び跳ねる銀鱗の煌めきの中で幻想的に昇華される。宗教者にとって啓示が持つ意味と同等の比重と重みを持って、宗教的な回心に似た境位において、中産階級的な価値観はかなぐり捨てられる。心の遠い底から野生のような叫びが遠い木霊のように戻って来る。ブルジョワの妻が追い詰められた結果としては描かれていない。新しき女としてのノラのような自覚的な選択的行動の結果としても描かれてはいない。一泊の宿を借りた考古学者の一見の旅人が車で敷地を後にするとき当然のようにその隣に彼女は納まっているる。開いた口がふさがらないとはこのことだろう。主催者と客とが仲良く整列して見守る中二人を乗せた車は去っていく風景は半ば滑稽で半ば長閑である。
 しかしこれが新しき生活の初日にはならないだろう。助手席に坐した女の頬を静かに涙が流れる。男に理由を聞かれて女は応えることが出来ない。近未来に控えた二人が生きる異なった二つの世界が目に見えるようである。一夜の安眠を求めて宿泊した宿で簡素な食事を終えて出発しようとするとき、宿の少年から僅かな釣銭を受けとる場面をカメラはさり気なく描くが、二人の対応は丁寧である。家庭生活の敬意を知らなかったとは云えないゆえにこの場面は憐れなのである。そして如何なる勇ましさもなく静かに「FIN」

 それにしても甘味なブラームスの音楽を背景にまるで幻想的な絵画のような二人の逢瀬を描く森のある小川の風景が持つ超越的な美しさはどうだろう。闇夜に浮かび出た草原を照らす月夜の銀色の輝きは、ラ・ドゥ―ルほど冷たくはなく、フェルメールほど内面的ではない。フラゴナールやコローの享楽性や哀愁に近いのだろうか、そしてラファエル前派ほど文学的な憂鬱さはない。抒情は潔いともいいほどの思い切りの良さにおいて乾いている。一夜の逢瀬の、幸福の絶頂にあって女は言う。――いままでの自分の生涯が幸せであったかのような錯覚をもった、と。しみじみと感じる女の幸せを、過去形において語るその覚悟、その詩情が素晴らしい!