アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズと20世紀の文学――ヘンリー・ジェイムズを読むと云う”事件” アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズと20世紀の文学――ヘンリー・ジェイムズを読むと云う”事件”
2013-05-20 11:02:57
テーマ:歴史と文学

 ジェイムズの文学の20世紀文学への影響と云う点に言及すれば、平凡な日常的事象的な世界の背後に普遍的な神話的構造を読みこむと云う意味では、もう一人のジェイムズ、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』は、可視的な世界に併せて不可視の世界――幻想、妄想そして神話的世界――の構造を重ね合わせて描いたと云う意味で、その自覚的な方法論的な形態と文学史的な一帰結である、と云うことが出来るだろう。また人間観察の辛辣さや俗物性を描ききるあくどさの点でも両者は際立っている。もちろん、ジェイムズが生涯に渡るコスモポリタンとして透明な観照的態度の中で等しい光源の中でその微妙な差異を、全てを憐憫と愛惜の眼で眺めると云う観照的態度に終始たのに対して、ジョイスの眼差しには祖国を失ったものの悔悟と怨念が籠っている、また広く英文学圏の周辺的立場にありながら主要言語に対する両者の違いは対照的であって、多言語で博学の人ジェイムズにはあの間接描写とも朦朧態とでも評価されるような文体には一筋縄でいかないものがあったようであるし、ジョイスの場合は主要言語が同時に敵性言語であったと云うアンビヴァレンス、イロニカルな肌合いを超えて、正調イギリス英語を超えるのだと云うそう途方もない気違いじみた天才の狂気、精神病理学的なパラノイア的偏執という、違いがあるにはあるのだが。
 他方、もう一人の巨匠、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』では、『鳩の翼』の上流階級の俗物たち――モード・ラウダー夫人やマーク卿、藪医学会の権威ルーク・ストレット卿などの鉄面皮な懲りない面々を、その羞恥心なき破廉恥さを破廉恥であるがままに描いたように、ゲルマント公爵家ヴェルディラン家のサロンに集うごろつきどもを、時のスケールの中に巨人大の巨大壁画として描いた。人間観察や時の批評においては時を超えた観察点からの超越論的な一元批評などはあり得ず、人は与えられた経験を与えられたままに経験する、それ以上でもそれ以下でもない、それが時の受容と云うものである。従ってマルセル・プルーストの文学には認識の誤りや錯覚と云う事象はあり得ない。人は誰しも時に抗いつつ生きながらその時々に一喜一憂する、その平々凡々たる風景がまるでホメロス叙事詩にように、時にに抗ったものを描いた巨人族の物語、壮大な時の叙事詩として読める、と彼は云うのである。ジェイムズの文学の中にある平凡さの中にある偉大さと云う概念は、プルーストの文学の中に最も特徴的な形で継承されているように思える。
 フランツ・カフカの文学については既に触れているように、見透しの利かない視界零(ゼロ)の生き方、主導権は自分にはなく絶対的に他者の側にあるとする強迫観念、ハイデガーの云う被投性の世界が出現する。孤独を描いた現代文学は多いけれどもカフカの描く世界はこれら――いわゆる現代文学を特徴づける内向的とか内面的とか言われる自省の文学――とは正反対の世界、他者の他在性が近すぎて自他の区分が不明瞭になる世界、その秘密主義的な権力が外部にあって妄想の秘密警察を組織し拘束力を不可視の潜在力として発揮するだけでなく、個人のプライバシーと云うものが成立する根拠のそのものが失われ、裸の自分自身が赤裸々に外部に投げ出されてある世界、自分のことがまるで他者に筒抜けになっていて、自分が語るのか影の他者が語るのか見分けがつかなくなるような不気味な世界、そうした世界なのである。カフカの文学と云えば日本では村上春樹のようにカフカに言及することの多い作家もいるが、前提となる現実性が少し違うのではないかと思う。村上は作品の中で華麗なイメージの世界を繰り広げ、登場人物たちは様々な試練に遭遇するのだが、作者だけはその試練を除外されているかのごとくである。前提となる文学観がまるで違うようである。どう読むのかは個人の勝手だが、どのように読まれてきたかを踏まえることは少なくとも文学研究に対する敬意である。
 カフカやジェイムズが直面した現実を広義の物象化現象と名付けるとするならば、かかる物象化の世界の顕在化は現代史の事象としては、最初は30年代のドイツで、戦後はチェコ東ドイツポーランドで一部典型化した事象であることは有名だろう。プラハ生まれのドイツ語作家カフカが、間近に変容する現代史的事象を言語化したのは地理的因縁以上の説得性を持つ事象である。そして世界的事件としては統合失調症類似社会学的症候群として普遍化の事象として拡大したことは精神病理学的な歴史が語るであろう。
 かかる意味ではジェイムズの文学は、20世紀の三大文学の何れにも同時に触れると同時に、部分的には文学以外の二つの潮流、精神病理学ウェーバー流の魔の支配の政治学思想と隣接し、方法上の根拠を与えていると云う意味で、極めて時代思潮の主流からは孤立しているようにみえながら、またその外見は一見古色蒼然とした儀帝政王朝風のバロック的な見せかけの外観を与えながら、ヘンリー・ジェイムズの文学を読むとはなかなかに、現代的でスリリングな”事件”なのである。