アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの『黄金の盃』 アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズの『黄金の盃』
2013-05-25 18:01:04
テーマ:文学と思想

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・ 『黄金の盃』を読んでその複雑な読後感はしばらくは何事も語りたくないような気持ちにさそわれる。例によって二組の男女、そのうち二人は富豪のアメリカ人父娘の親子で、娘が婚約する相手の公爵と称する美系のイタリア人の男と、その彼とむかし愛人関係にあったとされるもう一人の風来坊のような、親なしの捨てのような貧しい無一文の娘が、偶然から父親の後妻に入りまるで一昔前の「玉の輿」のような趣を呈するのだが、ややこしいことに、若い二人の女同士は遥か昔のヨーロッパ時代の遊学時代に同じ寄宿舎で過ごした、もっとも心を通い合わせることが出来た親友だった、と云うのである。公爵と愛人の交友関係がどの程度であったかは千ページに近いこの本を最後まで読み通しても遂に分からずじまいなのだが、富豪娘と没落貴族の貴公子との富と社会的名声が取り結ぶ縁を起点に、恋人ほども仲の良い父娘の間に入り込んできた、元恋人同士の、無一文の、貴族の称号と野心しか取り柄のないえげつない物語だと考えても大きくは違わないだろう。富めるものと貧しいもの、『嵐が丘』をもっと極端にしたような、例によってジェイムズのドラマ設定は少女趣味のロマンス文庫のように甘ったるく浅はかで極端であるから、その浅薄であさましい粗大ゴミかガラクタのような紛い物の美術品のような素材から彼がどのような物語が紡ぎだされるか、興味が持たされるところである。
 表題の『黄金の盃』とは、外目には純金で出来ているように見えながら、実際には地金の水晶にひびが入っていて、それを金鍍金で覆った紛い物の盃と云うことで、作中に登場人物を介して語られることになる、その紛い物の金ぴかの盃のことである。つまり一方では、ヘンリー・ジェイムズが道徳的教訓話的に語るところによれば、この小説で描かれた人間関係は、傷を隠し内在させた紛い物の、勿体を付けた如何様の古美術品のようなものであった、と云うのである。

 物語というものは単純で、富豪のアメリカ娘と名ばかりの貧乏公爵の結婚式を控えて、昔の公爵の愛人が娘の結婚式の祝いに遥々と訪ねてくる、と云うところから始まる。昔は親友でったにも拘らず招待の関係者名簿から外れていたと云うことは、元来の人間環境が何であったかを、それなりの理由があると云うことを洞察すべし、ということだろう。
 実際に、長年恋人のように仲が良かった父と娘のファミリー的な世界に外部の二人が介入し、家族としての参画するわけだがそれは化学変化のように正確な、言い換えれば予想されたメロドラマもどきを予想させる。しかも父と娘の婚約時代より前のファミリー時代の習慣が、それぞれの父と娘の二組二様の結婚様式の成立後においても、元恋人同士の疎外された関係を、今度は似た者同士と云うことで復活させてしまう。ここまでが前編である。
 後編は、昔の恋人同士の関係の復活を知った娘が苦悩と懊悩の果てに、果敢な行動を断たれた以心伝心の親和力のような気配やためらい、あるいは推測や想像、時には妄想や空想を交えたイマジネーションの果てに、あらゆる行動と幻想と妄想の果てに、その試行錯誤の果てに、お互いにアメリカとイギリスに分かれて住むことによって大西洋と云う緩衝地帯を設けると云う、暫定的なでもあれば安易な解決案に救いを見出すと云うところまでが後編である。
 その後彼らはどうなったのか、この小説では予感としてすら語られない。四人が四人とも、その長短はあるけれども、少しは道徳的に進化したのだと好意的に解釈すれば、ひびの云った黄金の盃を鋳型にして本物の純金の盃を鋳直すことも出来るかもしれない、そんな幻想を抱くことも可能である。しかし彼らのこれまでの行動や処世観を見る限りとてもそんな楽観的な見通しを信ずることはできないし、そうした安易な見通しを信じることがよりよい問題解決の方法とも思われない。

 しかしそれだけのことを書くのにヘンリー・ジェイムズと云う偉大なる英米文学の巨匠が何も千ページを要することはなかったであろう。著しく道徳的に品性を欠いたこれらの四人の登場人物たちが悔い改めて自らの非を神に懺悔する、と云うストーリーの展開だけでもないと云うことは既に書いた。二組の夫婦が大西洋を離れて生活すると云う小説の最後に齎される暫定的な解決法にしても、最後は不自然なほどにお互いを”素晴らしい方だ!”、”偉大な人たちだ!”とお互いに褒め合うことによって何らかの悔悛劇が行われたと云う形跡は、最後まで認められない。むしろお互いに素晴らしい人たちだと何べんも強調することで不自然さの印象は高まり、かえって読者としてはそこに胡散臭いものを感じとらざるを得ないのである。この小説は、読者が最も求めていたもの、長編小説としての纏まり、愛欲教訓劇の感動的なさわりとカタルシス、物語の最後に据えるべく座りの良いエンディングを、ジェイムズは最後まで読者に与えてはくれないのである。

 この小説では、直接話法と間接話法を混用するジェイムズ固有の朦朧態とでもいえそうな、疑似口授体の威力が如何なく発揮されている天才的な驚異の一例である。ジェイムズの小説では何度も書くように最後まで肝心なことが分からないまま進行し開示されないで終わる。その起承転結の不首尾をめぐって、真相はどうであったのかをめぐってヘンリー・ジェイムズ研究史においては様々な解釈がなされてきたかのようである。実際に青木次生の講談社文芸文庫版は100頁以上を費やして異例の解釈と解説に当たっている。従来青木氏は翻訳者でありながら、その解説を自ら書くことを望みながら書くことが出来なかったと云うことを感慨とともに思い出す、そういう人物なのである。たかが翻訳と云うなかれ!彼は彼の学者人生の生涯の何がしかを注込んでも悔いがないと思えるほどジェイムズの文学に精力を傾けたのである。結果として出来上がった朦朧態としての日本語翻訳体は、わたしにはその成否を判断するべき立場にないが、源氏物語を思わせる翻訳分は、ジェイムズの文学の精緻な移し替え作業であるだけでなく、日本語の特質を生かしめたものとして貴重なもののように思われるし、翻訳を一個の芸術として称賛すべきものだとその認識を新たにする。
 ここまで入れ込んだ英文学の研究者に対して、わたしのごとき翻訳で一度だけ読んだだけのディレッタントが何事を云うべきことがあるだろうか。それで次のことを云うだけに止めたい。

 ヘンリー・ジェイムズの文学は事実としての現実を描くだけでなく、幻想としての真実をも同時に描くため、写実主義のレベルでの犯人探しのような瑣末な作業は意味を持たない。またジェイムズが編み出した意識の流れと云う手法は、事実を描くのではなく、事実が現実として成立する以前の多様を意識の真実として描くのであるから、明瞭に形をなした現実性だけでなく、形をなさない未決の現成態の要素をなすもの、それは不可視の幻想的な領域も含みながら(時には妄想や空想と云う次元にも隣接しながら)、写実主義的な手法がしばしば見失いがちな人間性の偉大さや尊厳にその描写法は迫ろうとするものなのである。ジェイムズがたとえ人間の愚かさや浅はかさを辛辣極まりないイロニーにおいて描いたとしても、どのような愚かな人間にもある偉大さと云うもののが顕現する瞬間を、偉大なる作家は描き留めることを忘れはしないのである。

 もう一つヘンリー・ジェイムズの文学の現代史における意義について触れておくならば、それは悪成るものとの対決である。悪なるものの起源は古いが、それが顕著になるのは近代思想史に場面を限るならば、ニーチェなどによって神の死が宣告されて以降のことである。ここで云う悪とは、世界内事象としての悪のみではない。神の死によって際立つてくる形なき全体、世界の外部性が孕む問題性である。

 『黄金の盃』の中では人生いろいろ、喜怒哀楽のドラマは様々に経験したけれども、本当の意味での悪意と云うものを経験したことのない人生の初心者、若葉マークの富豪令嬢マギーにとって、悪に怯むことなく、また悪を嫌悪することなく、悪とどのように付き合っていけばよいのかと云う、一種の感情教育史としても読めるのである。実際に話は大きく飛躍するのであるが、ジェイムズが最後の生涯を生き切った1915年とは第一次世界大戦ロシア革命下の、ファシズムとボルシェヴィズムと云う形でわたしたち人類が、”現代史の悪”と直面する初めての事態になるのである。悪の存在を感情的かつ感傷的に否定しても無駄なのである。かと云って悪の力は底知れぬほど強い、ちょうど夏の夜のヴェランダで主人公のマギーが直面した闇のように!わたしたちは絶対的に孤立無援の状況の中でこの若い女性のように、震えながら悪と対峙しなければならなかった心細さを思うべきなのである。
 まさにこの状況の続編こそ、政治学マックス・ウェーバーの一連の著作が直面した状況だったのである。悪魔は老獪である。悪魔を忌み嫌うのではなく、彼らのやり口や手口を研究しつくさせねばならない!場合によっては先手を打って、悪魔を出し向くことも必要である。しかしどの段階まで目的は手段を浄化し得るかと云う問いは、砂漠の修行者が孤独ゆえに陥りやすい、永遠の謎めいたサターンの誘惑なのである。

 『黄金の盃』はヘンリー・ジェイムズの文学において、その偉大さと底知れぬ不気味さにおいて、かつ現代史における問題性において、最高傑作と云えるのではないかと思う。そのためにはもう一度読み直すほどの手間を惜しんではならない。