アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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☆ジェイムズの『ワシントンスクエア』 アリアドネ・アーカイブスより

☆ジェイムズの『ワシントンスクエア』
2013-05-26 20:27:28
テーマ:文学と思想

 


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・ 『ワシントンスクエア』のような本を読むと、しばしばヘンリー・ジェイムズの文学について語られるヨーロッパ的なものとアメリカ的なものの対立と云う大仰な構図は本質的なものであったのかどうかが疑わしくなる。主人公のごく平凡な娘キャサリーンが、ジェイムズの文学において重要な役割を果たす無垢なるアメリカ娘の元型であることは詳しく説明もする必要もないだろう。そして彼女に対立するのが、厳格な完全主義者の父親のスローパー博士である。スローパー博士の背後にあるのは、独立戦争からそう年代もたっていないアメリカの、それもその価値的に中心的な役割を果たしたと思えるニューイングランド気質、広く云えば後に東海岸と呼ばれる地方の、あえて言えばピューニタリズムの伝統である。つまり19世紀の前半期の、独立戦争フランス革命を経験したの後でのアングロサクソンの諸国において、いまさらピューニタリズムの伝統を云々するのは時代錯誤も甚だしいと云う気がする一方で、マックス・ウェーバーも指摘するように宗教的な向上心や禁欲が学問や社会的実践としての貢献として、形を変えて生きのびていることを指摘することは大事だろう。事実、ジェイムズのスローパー博士と云う人物の読者向けの紹介の仕方にしても、厳格一方の形式主義者と云う一面はない。時には自らの性格的な偏向を意識し理性で制御しつつ過大な負荷を得た得まいと制御する理性人としての姿が幾度が正確に描きとどめられている。また逆に云えば、スローパー博士が一昔前のメロドラマにあるような戯画化された像としては必ずしも描かれたわけではないからこを、主人公のキャサリーンをその呪縛から脱却させることが長年月に渡って出来なかった反証の一つにもなっているのだ。”父には欠点と云えるようなろころが一つもないのですもの”と云うのがヒロインが語る父親像である。しかしかかる父親の理想像も前半までである。やがて父子の愛をめぐるあり方の中で、この父親像は大きく揺らいでいくのである。

 父親のスローパー氏博士が医者として設定されているのは極めて象徴的である。すなわち、医者とは資本主義社会の中ではイコンとしてなにを象徴するか――

”医者は・・・・・アメリカで高く推奨される実践と云う領域に立ちながら、同時に学問の様相も備えている”(冒頭の本文)が故に、”アメリカでは医者は常に立派な職業として尊敬され、紳士階級だと自称する正当性を他の何よりも有している。”(同上本文)

 わたしたちは『ワシントンスクエア』を読むことによって、ジェイムズにおけるアメリカ的なものとヨーロッパ的なものとの対立と云う長年信じられてきた構図が、表面上の象徴以上のものではなかったのだと云うことが理解できるのである。一方の、アメリカ娘の自然児のような無垢さ純粋さ、と云う定義は変わらない。他方のヨーロッパの伝統社会や価値観と云うものが新旧対立の真の軸点ではなく、”父には欠点といえるようなところが一つもない”と云われるような完全無欠の、ピューリタニズム型の信仰がが形を変えて生まれ変わった世俗的形式主義、19世紀以降の神なき時代においてはいっそう顕著にその姿を現わしつつあった自然科学的な厳密性の論理的帰結としてのイデオロギー的な背景を備えたリゴリズムにこそ、本当の宿命的な敵のおぼろげなる相貌を突き止めてみることが出来るのである。
 わたしたちはジェイムズの二ユーイングランドにおける祖父、父、ジェイムズ兄弟における葛藤、沈黙のドラマを想定して見ることも出来るのかもしれない。

 まあ、話を20世紀における社会思想史と云う面に広げ過ぎて収集が付かなくなるので話題はこの辺に留めて、小説の世界に帰るとすると、『ワシントンスクエア』ほど無残な話もないのではなかろうか。たまたまここに美貌にも恵まれていなければ才能も十人並みのごく普通の娘がいるとする。娘の不幸はたまたま父親が偉大な医者であったことと、母親を早く亡くしたこと、その死因が自分を出産した後の産褥に原因があること、加えて数年前に生まれて早世した長男は文字通り期待された通りの跡取息子であったのに、次に生れた自分は女であるだけでなく、全ての面で平凡で父親の高邁な理想の実現には、常に裏切られつつある象徴であった、と云うのである。彼女は祝福されることを欠いて生まれた信仰の私生児のようなものであった。
 ジェイムズは娘の悲劇を描くのに、スローパー博士の他に彼の妹のラヴィニアを配する。彼女はかって文学少女であったことがさり気なく書かれており、彼女の夫は雄弁な説教士であったらしい。彼女は自分では有能だったとしばしば美的に回想される牧師を夫に持ったことのある未亡人であり、幸いにと云うべきか子供がなかった。彼女の特徴はこうした牧師の妻として建前の世界に生きてきただけに、少女趣味的な夢想癖が未だに無傷で健在なのである。それで頼まれもしないのにこの種の女に特徴的なのはお節介やきであり、それは自らが他人に卓越していると云う無言の意識から生じるのである。自分の存在を他者に役立ちうるものと頭から信じてくるどうしようもない存在なのである。だから、明らかに資産獲得が目的で一人娘キャサリーンに接近してきたモリスの意図を全く見向くことが出来ず、実利よりも文学性や悲劇性を優先させ、分かっていてこの悲劇性を孕んだ婚約劇の外側に自分は留まりながら、ついでにお節介を焼くだけでなく自らも俳優も演じてみたいし、演じるならロミオとジュリエットの悲恋を傍から助ける修道士のような役割がいいし、望みえるならば脚本も書きたいし演出も手掛けてみたいなどと云う妄想を不謹慎に紡ぐ、老いたる赤い雌蜘蛛のように一家の頂梁に潜む、文学少女のなれの果てである。こんな女が傍についていて、恍惚としてロマンス劇を重ねながら純真な少女に助言するのであるから、ろくなことがある筈がない。
 そして敵役は絵にかいたような名家の傍流、悪役モリス・タウンゼントである。しかし本人も”僕は昔の小説にあるような、資産金が目当ての男ではありません”といけシャーシャーと述べるように、本当のところはどうだったのか、資産が目的であったことは動かぬとしても、半分ほどは、あるいは大きく譲って、一寸の虫にも五分の魂と云うように、三部か五分ほどは真実の愛が含まれていたのではないのかと思わせるほど、例によってジェイムズの描写は曖昧である。50%か5%だったかはともかくとして、彼の裏切りには主人公を大きく傷つけるのだが、本当の悲劇は彼女が父親に愛されていない娘であったということにあった。あるいは自分が愛されていないと云う父親の秘密を確信したときにこの物語は悲劇の様相を帯びた、と云うべきなのである。

 しかし父親が血の繋がった娘を愛さないと云うようなことがあるだろうか。実際には、何事も曇りなき眼で厳格に見ると云う父親の世界観、人生観に照らして、資産付きの娘と一文無しの美貌の求婚者と云う見え透いた三文小説的な設定が許しがたいものに思えたのである。しかしロマン派の教えるところによれば、愛は盲目とも、あらゆる打算を超えるとも云うので、娘が偽りの求婚者に抱く愛の崇高さもまた妥協を許さないようなもう一つの真実なのである。つまり自然科学的な真実と目に見えない不可視の形而上的な真実の概念が激突しているのだと認識して良い。しかも不幸なことに近代世界においては、愛が同時に倫理的な行為であるのは勿論、倫理的な行為を超えて崇高な概念でることはもちろん、スローパー博士の自然科学的な価値判断能力もまた、完全性や完璧性、禁欲主義的宗教が近代に齎したもう一つの崇高な生き方の典型として形を変えた倫理的態度であることは変わらない。つまり父親のリゴリズムを批判するいことは余りにも容易であり安易にすぎるのである。お互いの価値観が認識であると同時に倫理でもあるがゆえに、あるいは崇高さの概念を両者が旗印として掲げているがゆえに、この父子の対立は容易には解けないのである。お互いに意固地であり、思ったよりも頑固であると相互批評を繰り返す。思慮が繰り返される中で二人は次第に冷静さを失っていく。単に理屈を優先させる生き方の前には、肉親の絆とか思いやりとか優しさとかの概念は如何にも儚い対象でしかないのである。父親の意固地さが最終的にどこまで徹底していたかは、その遺言に件の青年との結婚は許さない旨を希望として述べ、それが満たされない場合は、遺産譲与の条件はかくかく,と云う程の徹底したものであった。理念型に生きようとする場合に人間はどこまで徹底できるかの見本のようなものをスローパー博士はみせてくれる。
 結局、娘は世間並みの幸せになれたのに自らその可能性を狭めるような生き方を意固地に選択してしまう。その後も世間並みの縁談の幾つかを見せしめのように断わり、独身女性としての生き方を”気高くも”選択することになる。そんな平穏な日常がそれなりに二十年ほどたったある日、またしてもラヴィニア・ベニマン夫人のお節介で、結局人生の志を遂げることのなかった失意のモリス・タウンゼントが訪ねててくる。いまさらこの平穏な生活に波風を立てることに何の意味あるのだろうか。この場面は彼女が訪問者を厳しく突き放して復讐を遂げる場面よりも、結局キャサリーンのなにを傷つけたのかを一生掛けてもり理解しえない人と人の間に設けら得た深淵を描いて気分を滅入らせてしまう。人はどこまで鈍感になり得るのか、と云うのがこの小説のもう一つのテーマである。
 ひとは経験には、学び得ない。

 気分が滅入るような小説なのだが、何の卓越したところもない、十人並みと云われる娘の、平凡さの中にある偉大を描くジェイムズの筆さばきは流石とも云わしめるものがある。伝統的な英仏の文学を超える、新世界アメリカを代表する巨匠の、輝きの一筆書きである。天才と云うものがどう云うものであるかの見本を、しっかりと見届けていただきたい。
 はじめての愛を打ち明けられての彼女の反応である。――

”(愛の告白はキャサリーンにとって)現在が急に豊かに、厳粛なものとなった。自分が恋をしているのだと誰かに言われたとしたら、キャサリーンはさぞかし驚いただろう。キャサリーンの考えでは、恋とは相手に強く求める情熱であったが、最近彼女の心を満たしているのは、自分を無にし、自分を相手に捧げたいという衝動だったからである。”(本分「8」より)

 こんな場面を読むと、あとをを読み続けるのが辛くなる。

 このような場面こそ、後期ヘンリー・ジェイムズがその大作群において度々描くことになる、輝くような無垢なるものの、初期の元型的な姿なのである。

 恋や恋愛と云うものの皮肉は、ジェイムズがこの小説でも書いているように、われわれ哺乳類としての種としての愛の様式と、不可視の世界に屹立する愛の幻想的様式が、周期的に、時期的に、一致しないと云う不可解さの点にある。人は本当に経験によって磨かれると云うことはあるのか、この点についてジェイムズの観照的な人生態度は否定的である。確かに、ひとは経験によって賢くなることはできる。しかしより豊かになることはできない。人間経験を経ることによってかえって意固地さが極まることもあるけれども、それでも、世俗を超えた愛に対する観照的な態度が、幻想的な愛の様式と奇跡のように、この世において地上的な実現の余地を見出すと云うことも、たまにはある。人は愛によってなら成熟する。成熟した愛の観点から生涯を見直したときに、キャサリーンのような娘がどんなにか金無垢の金棒もダイヤモンドも及ばないほどの、かってこの世に、この地上に、燦然と輝いていたかを!知る者はいない。そうした愛の奇跡が幾度となくこの世では実現されていたのに、わたしたち人間は愚かで浅はかであるがために、その多くを見逃して、湯水のように、ともども流し蕩尽してしまった、と云うことはなかったのだろうか。そんな悔悟と悔悛の気持ちが、もう忘れさったと思っていた遠い記憶の彼方からある日、聞き間違えのない明瞭な音のように聞こえてくるのを感じるのである、それが文学を読むと云うことなのである。