アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの『ねじの回転』 アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズの『ねじの回転』
2013-05-28 14:27:57
テーマ:文学と思想

・ いよいよ『ねじの回転』である。昔から悪霊の餌食にされると云う話ならゴシックロマンでは普通だが、それが善良な子供たちが巻き込まれるとなると、ひとひねりだね。ついでに”子供が二人の場合は――?”、”もちろん、二回転になるじゃないか!そういう話なら、ぜひ聞かせてくれたまえ”(” ”内、本文より)

・・・・・と、こんな風に始まる。

 ヘンリー・ジェイムズ、五十五歳の時の円熟期の作品であると言ってよい。この小説は今までにも高校生の時に一度、社会人になってから一度、怖ろしさは変わらなかった。この作品をめぐっては解釈をめぐって議論噴出のようであるが、『黄金の盃』のような作品の読み方を経由して読めば、これは独身女性の家庭教師が見たフロイド風の妄想などと考えるべきではなく、幽霊が出たと云う風に、正真正銘の怪異譚として、正しく読むべきである。

 この小説を現代小説として読もうとする場合に幽霊の実在に関する議論は本質的な意味があるとは思えない。この小説をフロイド風の解釈が卓越したヴィクトリア朝時代の幽霊奇譚として読もうが、『エクソシスト』のように読もうが読者の勝手であると云えるのだが、少なくとのヘンリー・ジェイムズの作品として、彼が同時期にどのような作品を書いたか、と云うことを念頭に置きながら読んでみると云うのも読書の一つのあり方なのである。とりわけこの作品の怪奇小説としての特徴は、多義的な解釈を許すと云うマニア好みの読み方は別として、直截的に危害を加えたり、特別怪異な姿を現わして心理的に圧迫感を与える、と云うような亡霊ではないのである。読んでいくと、少し前まで館に勤めていたと言われる家庭教師と下男の二組の男女の亡霊は、主人公の家庭教師にだけしか見えないようである。誘惑されるひと組の男女の子供たちにしても、幽霊出現の場面ではたいてい背を向けた姿で描かれており、これが家庭教師の目には、意図的に幽霊出現を前に演技している、と云う風に描写されるのである。かかるジェイムズ固有の曖昧な描写で描かれているがゆえに独身女性の白日夢が齎した妄想ではないのかと云う、前記のような多様な解釈も成り立つのだが、この曖昧さが最後はマイルズ少年によって”ピーター・クイント、さ――この悪魔め!”と名指されるように、幽霊はやはりいたとして読むべきなのである。

 ここはジェイムズが曖昧にしか語っていないことを、整理してみよう。――この話は随分と昔の話で由来もはっきりしない。もう随分昔に、さる家庭教師をしていたさる貴婦人が自らの青春時代んき経験したある出来事を纏めた手記を、ダグラスと云う、少年時代に彼女の生徒だった紳士が金庫の中に保管していて、あるクリスマスの夜の夜話のひとつとして披露すると云うものである。ダグラスは物語が直接自分自身に関係するものではなかった、と云う。しかし独身貴族を仄めかすダグラスには、かって年上の女性に奉げられた秘められたロマンスのようなものが言外の噂として語られ、彼自身の云い分にもかかわらず物語と無関係ではないと考えるのは自然である。もちろん小説ではこの件については以後、一切言及されることはないので、読者の憶測の域を出ない想像と云うことになってしまうのであるが。しかし年上の女性に対する思慕と云う点では、デビュー作の『デイジー・ミラー』以来、『大使たち』に至るまでヘンリー・ジェイムズの文学では重きをなしたデーマの一つだった筈である。
 さて、話を元に戻せば、関係者が全て故人となった昔話をクリスマスの余興として、あるいは厳粛な打ち明け話として聞こうと云う催しの場が、少数の友人たちを前にして設定される。ダグラスは女性が書いた手記を朗読する。それを”わたし”が聞く。しかしその”わたし”は物語が始まると二度と出てこない。ダグラスと”わたし”が極めて親しい友人関係にあること、この小説で読者に打ち明けられないことの幾つかを知っている、というのが本分の前書きとも呼べる部分を読んで読者が了解し得ることの全てである。

 こうした前段があって、物語は始まる。
 主人公の若い娘は二十歳で、牧師館に暮らしていた。そんな彼女に取って広大な館に暮らす幼い兄妹の家庭教師に応募することは初めての社会経験である。そこでは一切が任され、唯一の条件は、幼い兄妹の叔父と称する依頼者に一切相談することなく、自主的に進めること、まるで相談されることを迷惑がられでもするような不可解な条件であった。願ったりかなったりのようであるが、複数の応募者たちが彼女を除いて辞退したことがさり気なく語られる。彼女も自分自身のキャリアと責任の重さを感じた時正直に任に堪えないと思うのだが、依頼主の叔父と称する紳士の美貌に幻惑されて、この方のためにならば、と単純に乙女らしい想念に思いつめるのである。
 さて、館に到着する。万時結構づくめのようではある。いままで家政をしきlてきた家政婦をしているミセス・グロウスとは意気投合する。しかし程なく明らかにされたことは、それほど昔ではない近過去に、ノイローゼのために死亡した若い家庭教師がいたと云うこと。その若く美しかった家庭教師は、どこか主人公の女性に似ている。それからもう一つ驚くべきことは、館の治外法権化を良いことに、身分違いのピーター・クイントと云う下男の、何か性的なニュアンスを暗示させる専制支配下にあったらしいことである。その彼も、ある日路上で頭部に致命傷を受けた姿で発見される。忌わしいことに蓋をするように誰も語らず、死因は特定され究明されず、冬の冷え込んだ朝、凍結た路上で頭部を打ち付けたのだろうと、これはまたのんびりとした実しやかな理由が取りざたされただけである。
 つまり主人公の若い女性が館の正面玄関を潜ったとき、もしその事実を知っていたならば、まだ彼らの残した雰囲気が漂っているような、生々しさがあったと思うのだが。幸いなことにと云うべきか、若い女性には、――読者も――これらのことは小出しにしか知らされることはないのである。

 ところで、ヘンリー・ジェイムズにおける悪なるものとは何なのか?悪なるものとは悪事ではない。悪なるものとは、この物語では死者が生きていた時の思いを、絶えることなく他者に転位し、他者を通じて邪悪な何事かを成就させようとする倒錯的な行為である。ここで云う悪の許し難さは、対象が死者であると云うこと、もう一つは妄執のように霊界の情念を反転させ、この世の生者の世界に反作用を及ぼし、残された人間の活動を生きたまま操ろうとする点にある。ヘンリー・ジェイムズは悪を、人間的諸行のあれこれの悪事ではなく、悪と云う行為がある一つの人格に統合される以前の、集合的無意識の悪事を根源的な悪と呼んでいたような気がする。もし悪が、世界内的な悪ならば道徳的な悔悛やキリスト教との場合は懺悔と云う手段によって対応が可能である。しかし宗教や道徳は人格としての人間は救うことが出来ても、非人称の悪意は救うことが出来ない。ジェイムズが悪なるものを描く場合の不気味さ、怖ろしさはこのような悪に関する一般認識の違いにあるような気がする。

 若い家庭教師の娘が悪についてかかる理論的認識を持っていたとは思えない。にも関わらず、幾度も恐怖と絶望のどん底に落とされながら、悪に対する戦意を失わないのは不思議である。心理的な恐怖ではなく、論理的な認識であったからこそ、最後まで、怯むことなく、根源的な悪と正面から対峙できたのではなかろうか。
 それにしても思い出すのは『黄金の盃』における主人公があの夏の夜のヴェランダを彷徨う有名な場面である。室内では、シャーロット、公爵(夫)、父親と云った資産管理をめぐる主要な利害関係者が勢ぞろいしてポーカー遊びに耽っているのが窓越しに見える。極めて分かりやすい話なのである。文無しのイタリア人公爵とその愛人が、富豪の父娘に取り入って、利害のために恋人関係を解消し、二組の二世代の夫婦を形成すると云う、グロテスクな構図である。余り見え透いた嘘がまかりとおっているので、公然と批判できないと云う弱点が娘にはある。云い直せばこの公然の秘密を父親の耳だけには入れたくないと、娘は最低条件として死守したいと考えている。シャーロットは娘の弱点を利用して公然と夏の夜の闇の回廊を伝って広間に燦然とした悪の姿を現わすのである。引け目は、婚姻関係が金銭目当てでしかないと云うことが明らかなシャーロットの方にある筈である。しかし悪の恐ろしさは、公然化された秘密を公言出来ないと云う娘の弱点をとことん利用しようとするのである。

 『金色の盃』で”公然化された秘密”に対応するのが、面倒くさい相談ごとは一切自分の方に持ち込んでくれるなと云う、依頼主との間の”唯一の”約束事である。ついで利用するのは、何事も館で起きることは自分の判断で成し遂げなければならないと云う教養ある娘に植えつけられた自負心である。つまり亡くなった前任の家庭教師にしても、こうした内面的であるけれども自主性に富んだ知的なタイプにだけしか起こりえない、意図された館側の見えざる作為と云うものを感じることが出来るのである。まるで人身御供のように次々と若い娘をつぶしてしまう館側の意図は分からない。幼い遺産相続者としての兄妹たちと、若い独身の家庭教師を相打ちさせて遺産を狙うと云う露骨な意図があったのかもしれない。もしそうであれば悪霊たちは真実を伝える伝書鳩と云うことになる。しかしそこまでは書かれていないので、わたしたちは書かれたことを信用して、死者たちを悪霊として、闘いの経緯を読みとらなければならない。

 若い娘が取った悪に対峙する現実的な方策はどうであったか。男女の悪霊と、彼らに取りつかれた幼い兄と妹、この二組に対応する両面作戦を諦めて、妹の方を家政婦に別の処に連れ出させ一応隔離する、その上で闘いは個別に、マイルズ-クイントのひと組だけに集中する。やがてマイルスは若い娘の熱意に絆されて全てを語ると云うが、いまは語りきれない。そのうちにも悪霊は強力な磁力をもって少年をかすめ取ろうとする。”ピーター・クイント、悪魔め!”と云う、少年の名指された行為を持って奇跡的に悪魔は退散するが、同時に少年の心臓の鼓動も停止していた、と云うのである。
 最終的に少年の悪魔との魔の結託を断念させたのは、家庭教師の若い娘が、教師として使命も館を運営する家政代理人としても務めを果たせなくなるほど追い込まれた後も、館になお留まることの理由を聞かれて、半分は悪に対する憎悪ゆえに、半分は少年への愛情ゆえに――全くの嘘ではないだろう!――館に居残りを決めたと聞いた時の少年の反応、――初めて自分をかけがえのない、一個の対象として見てくれた教師を助けるために幼い命を投げ捨てた、と考えるべきである。

 つまりダグラスには、この話とは別に、この貴婦人のために命を捧げてもよいと思われるほどの思い出が、昔がたりのロマンスがあった、と云うことなのである。”わたし”は、そんな彼のことを知っているので、この話を聞いて感に堪えなかったのである。