アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの『ある婦人の肖像(上)』――第1章から8章まで アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズの『ある婦人の肖像(上)』――第1章から8章まで
2013-05-29 00:29:12
テーマ:文学と思想

 

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 『ある婦人の肖像』は、ガーデンコートと呼ばれる、良く日本で形容される言葉としてはカントリーハウスの芝生を舞台として、老若とりませた三人のイギリス人の紳士たちの長閑だが、時代離れした取りとめのない会話から始まる。そのうちの二人はアメリカ人の親子で、父親は資産をなした退職した銀行マンである。彼らの苗字なども読んで行くうちには徐々にタッチェット氏親子であると紹介される。親子はイギリスと云う国が気に入っている。そしてもう一人のお茶のテーブルを囲む紳士は、隣の荘園に住むウォーバトン卿である。三人に共通するのは現在取り手当てて仕事がないと云う点である。一人はアメリカ人実業家として多大な資産をなし、更に母国にない何ものかを求めてイギリスの田園生活で余生を終えようとするものである。その息子は大学で優秀な成績を修めて父親から大いに未来を嘱望された青年だったのだが後に明らかにされた、病弱で短命と云う呪われた運命を宿命と自覚し、何を恨むでもなく残された生涯を少しでも有意義にあらしめたいと願っている。
 小説を読み始めて感じる最初の印象は、無為であることを宿命づけられた青年の憂愁であり、暖かくそれを見守る父親であり、さらに外側からまるで人生の黄昏に生きるかのような親子を見守る友人の三人三様の姿である。そう先のこととも思えない父親の死に対してわが身に代えてまでもと思う息子の気持が哀切である。父親を、親友として過ごしてきたと云う青年の述懐には彼らの親子関係そのものを語ってなかなかのものがある。

 ウォーバトン卿は何時もそんな青年の生き方を間近で見るのが切なく、それで暖かい眼差しを籠めて突き放すように揶揄してみせるのだが、その彼も、成年男子としての見栄えとなかなかの押し出し、高い公的社会的地位そして名誉、イギリス各地に有する広大な家屋敷とそして一門に伝えられる資産と、何一つ不足するものがないのに未だに独身で、常に自分の役割を得ていないと思っている。そんなウォーバトンをタチェット親子は茶飲み話の話題の一つとして語りながら、しみじみと、異なった観点から、彼のことをある意味で”可哀そうなひとだ”と批評し、日ごろの彼らが受けているウォーバトン卿の毒舌へのささやかな仕返しをしてみるのである。

 しかしこの日は違っていた、十年一日のごとく繰り返された彼らの日常で、一つだけこの日が異なっていたのは、一年ほど米国に帰国していたダチェット夫人が久し振りに帰国すると云うのである。ダチェット夫人と云うのは青年によれば父親との結婚後理由も告げずにフローレンスに住まいを移しそれ以降の何十年に渡る彼らの別居生活を手っ取り早く既成事実化してみせた母親である。勝手気ままと云うよりも、家庭生活と云うものを経験して見てそれが自らの望んだ自由とは縁もゆかりもないことを知って即断したと云う訳なのだろう。詳しくは説明されない。そんな彼女の男性のような果断な性格に、青年は彼女に母性を感じたことはなかった。青年にとって夫人はまるで父親のようであり、反対にダチェット氏は母親のようであった、と書かれている。しかし今回のイギリスへの帰省が今までの再会別離劇と違うのは、彼女がとても素晴らしい一人のアメリカ婦人を、彼らには従妹になる姪御さんを連れてくると云うのであるが。そう云えば人生の黄昏の中にある静寂さが支配したガーデンコートに長らく若い女性の声が絶えて久しいのではなかったか、年老いた広大な蔦絡む館に、やはりそれはそれで華やぎと清冽さと話題するに足るものを提供するのであって、やはり人生に対する渇望はビロードの苔のように生あるものが静寂の中に吸い取られてしまうガーデンハウスの館にも、まるで石清水の伏流水のように生きていたのである。

 ジェイムズの小説は、例によって本編の主人公イザベル・アーチャーを額縁に嵌めこまれたフランスの古典名画の一枚でもあるかのような紹介のされ方である。すなわち――

”あのような性格の持ち主が――あれほど情熱的な生き生きとした若い女性が――活躍するのを目撃するのは、この世の最高にすばらしいことだ。それは最高の芸術作品よりも素晴らしい。古代ギリシアの浮き彫りよりも、偉大なティチアーノの画よりも、ゴシック様式の聖堂よりもすばらしい。”(同書第7章)

 ジェイムズの小説の作法が時代離れして感じられるのは、年代のせいもあるけれども、この時代のアメリカのブルジョワジーと有閑階級と云うものを考えてみなければならない。彼らは産業革命以降の大規模な工業化によって、英仏等の大陸の先進国諸国を凌駕しつつあると云う自身を深めつつあった。その上に彼らは豊富な資産を利用してヨーロッパの精神的な価値を手に入れたいと望んでいた。その詳細は省略するけれども、彼らのお上りさん的なスノビズムを過大に批評することではなく、この時期のある程度の社会的地位と富みとを手に入れたアメリカ人の一部は、精神と富みとの統合の象徴としてヨーロッパ人をも凌駕し得るほどの、”完全なる人間”の理想とでも云えるものをこの時代に、密かに胚胎させていたのではなかったのか。

 また、この”完全なる人間”の理想とも呼べるものは、同時にヨーロッパの旧社会有産階級の一部の急進派と呼ばれる人々――その代表がウォーバトン卿とされているのだが、そして一部ラルフ・ダチェット青年をも――を、今度は、当のイザベル・アーチャーとタチェット氏の会話にて、以下のように別の角度から批評させている。

”ウォーバトン卿とその仲間たち――上流階級の急進主義者たちさ。もちろん、私なりの解釈なんだがね。あの連中は盛んに変革を口にしているのだが、よく分かっているとは思えないんだ。あなたと私には、民主主義体制がどういうものだか、よく分かっている。私はその体制が大変に結構だと思っているのだが、それは生まれた時から慣れているせいだ。それに私は貴族ではない。あなたは淑女だが、私は貴族ではない。イギリスの上流階級の連中には民主体制の本当の姿が分かっていないと思う。(本分第8章) 

 こうした場面を読むとわたしなど胸が痛くなる。人類の進化を素朴に信じ得て、紆余曲折はあろうとも人類はそれでも良き方向へ進んでいるのだと信じ得た時代、人類が経験したギリシア時代の一時期を除いて、人類が掛け値なしに自らの理想にを率直に吐露し愛のように理想に対面していると信じ得た時代、そうした時代設定の中から、時と場所とあらゆる条件が満たされるならば、人にはそもそもどのような生き方が可能だろうか、とジェイムズは問うたのである。自らはそのような生き方を望むことも夢みることも出来ないとしても、単に願わしいこととして、願うこと夢みることは無意味な行為ではなく、深く人間であることの権利に根差した正当な理由であると云う啓蒙時代の言葉を思い出しながら、そのような素晴らしい人間の理想の実現を目指している人物の出現にもし立ち会うことが出来るのであるとするならば、せめてのことにみすぼらしい自分の人生も少しは救われるのではないのか、ラルフ・ダチェットはそう思うのである。

 ジェイムズの小説の登場人物たちが様々に繰り広げるこのような議論を聞きながら、彼らの話からイギリス式庭園に展開する水煙のように、けぶり立つ虹のように万事良いことずくめの素晴らしいアメリカ人女性、イザベル・アーチャーの出現に立ち会いながら、そうした、今日では荒唐無稽に思える時代設定ですらも、かっては真剣にそのような理想を信じ対峙しえた人々が生きた時代があったのだと、謙るような気持ちで思い出されるのである。
 それは必ずしも、異国の、遠い神話的な時代の出来事のようにみえながらそうともばかりも言えない。わたしたちが戦後の民主主義を信じ、新星の国家と一体感を持って語った僅かばかりの時期、その時もそうだったが、現実が大きく損なわれ、現実と理想の乖離が繰り返し意識されるようになっても、ある時代の青年たちの脳裏にはこの理想が生きのびていたのではないのか。

 再び話を戻すと、世紀末の時代を生きた青年たちの理想を、かくも美しく、欠点のない完全無欠なものとして描くジェイムズの舞台設定は、それゆえにこそ、この後に間近に控えている20世紀の激動を知っているだけに、哀愁を帯びてわたしの眼には映ずるのである。わたしたちの目が哀愁を帯びていると感じられるとすれば、それはわたしたちがその後に生じたことを、おぼろげながら知っているからにほかならない。
 イザベル・アーチャーが、『ワシントンスクエア』の薄幸の少女の系譜に連なるものであることは明らかだろう。素晴らしい素質を持ちながら、当時の女性をめぐる条件ゆえに生き方を狭めて生きなければならなかったアメリカ女性のその後を描いたものと考えて良いだろう。『ワシントンスクエア』のキャサリーン、それから本編のダチェット夫人、イザベル・アーチャーはヘンリー・ジェイムズ系譜のヒロインたちである。

 さて、第1章から8章まで凡そ130ページほど、全体はゆうに千ページを超えるので全体の十分の一を読んだところだろうか。さて全体を読了してわたし自身の印象はどのように変化するだろうか、楽しみである。