アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『ある婦人の肖像』――ジェイムズの優しさ(上) アリアドネ・アーカイブスより

『ある婦人の肖像』――ジェイムズの優しさ(上)
2013-06-01 10:43:10
テーマ:文学と思想

 

 


・ 『ある婦人の肖像』のイザベル・アーチャーは、誰からも素晴らしいと評される。”素晴らしさ”の不思議さは、本人がそう思っているだけでなく、好意を寄せるものもそうでないものも含めた大合唱が全編をとして一貫して維持される。そしてジェイムズの小説の特徴である、作者までが何の疑いもなく登場人物たちの大合唱に唱和して、その真実性を保証する、と云う云う点でも後年顕著になるジェイムズの特色は現れている。この感じは、ジェイムズの恋愛描写の多くが金銭の借款関係や資産管理を例えに用いた表現に皮肉な響きの尾鰭を残しているが、作者の”保証”などと云ってもまるで保険会社の”保証”あるいは銀行の貸借関係の書類のようなもので、後で前言を翻すこともしばしばだから、”適度に”読まなければならない。ジェイムズの文学を読む場合の要諦は決して作者を全面的に信用して読んではならないと云う事であり、何となれば作者とは、彼の価値判断を基礎づけるところの肝心な資料が、多くは登場人物の価値観や単なる感想、その個性と云う名の歪んだ行動則に依存しており、なるほど作者の”より高い立場”と云うものは、登場人物たちの物語的世界からは幾らか卓越してはいるけれども、根本的には変わらない、と云う点にある。その点、情報処理に一番不利な立場にあるのは、やはりわたしたち読者であって、わたしたちは登場人物の云うもっともらしい一々の言説や”ご高説”を、あるいはときどき嘘をつくことがある作者の見解を、全くそれ以外には情報入手ルートが断たれた状況においては唯一、祈るような気持ちで物語的世界の展開を信じて読むほかはないのである。この読者が置かれた一切の確かな情報が断たれたところで生じる奇妙な世界は、その固有な孤独感、疑心暗鬼と絶望感、浜辺から沖に流される水難者の理由が問えない絶望感のように、底なしの、脚が着くようで着かない不全感がぎりぎりで生存に繋がっているような頼りなさ、例えて云えばカフカの描く世界にとても似ているのである。

 さて、『ある婦人の肖像』の魅力は、多彩な登場人物たちの活躍にある。この件については別の原稿で書いてみるので、ここでは省略したい(一番魅力がないのは誰からも素晴らしい女性と称賛を受ける主人公のイザベル・アーチャーであるのかもしれない)。
 物語を簡単に纏めてみよう。ニューヨークの近郊のあるところに、孤児の三人姉妹がいた。物語が始まるころは適齢期で、幸いに上の二人はそれぞれに縁づいて活躍の舞台を外に求めて実家にはいない。両親が亡くなってからは祖母に当たる人が育児に当たったかのようである。それで東海岸のこの家は幸せだった祖母の思い出がたくさん詰まっている場所である。ついでに云うと母に当たる人はかなり昔に亡くなっており、悪妻だったらしい、と伝られている。父は一時実業の世界で成功したこともあるらしいが、本来的には金銭的感覚に疎く、そうした生活上の不如意、社会的な立場を築くことの出来なかった生涯の失敗を、それを愛情に転嫁して娘たちに向けた。とりわけ末娘のイザベルに対してはまるで彼女を王女様のように育てた。確かに幼いころから怜悧で賢くて、麗質は三姉妹の中では際立っていたのかもしれない。しかし父親の溺愛的な姿勢は高貴なものへの憧憬と、他方ではあらゆる醜いもの存在から目を反らせることになってしまった。こうした彼女の幼児経験が、彼女が人生を生き始める度毎に、その大事な選択や決断の度毎に影響を与えているとは思うのだが、何故かこの大事なことを何時も作者ジェイムズは”書き落とす”のである。

 つまり以上のことは、ジェイムズがこの小説の中で明示的に語っていることではない。通常の物語作者であれば読者向けに紹介したシノプシスであろうと思うのだが、まるでジェイムズは事のついでのように書くので、読んでいるときはそう大事なこととも思えず、あとになって読者が前後の関係の脈絡から、そうした前-意識的な物語的な前史を想像し再構築してみた結果なのである。こうした想像力参画型の読み方をしないと、ジェイムズの世界は極めて曖昧模糊とした難解な世界に変貌する。

 そんなアメリカの東海岸の田舎娘に転機が訪れるのはある婦人の訪問である。彼女はタチェット婦人と云って、二十年ほどはご無沙汰している親類の伯母である。成功した銀行マンの妻で今はイギリスに帰化するような格好で余生を送っている。結婚とは自由な女である彼女に取って外向けの擬態であり、自分の意志の赴くまま趣味の命ずるままいまは家族とは離れて一人、まるで物語にでもあるようなフィレンツェで流浪の公爵夫人のような、半ば伝説化した生き方をしている。つまり本質的にコスモポリタンであり、アメリカの開拓者精神やヨーロッパの古い家庭様式やモラルや価値観には馴染まない自らを見出して、人生の早い時期にこうした生き方を断念し、生き方のスタイルを身に付けたのである。夫のタチェット氏もまたこうした互いの生き方に理解があるようで、かっての実業界での成功やそれが結果として齎した現在の高い社会的地位と富みの存在にも関わらず、世俗的な成功によっては満たされることのなかったある想いを抱いて、せめて余生をイギリスの田園地帯のカントリーハウスで送ろうとする人である。この極めて不思議な生き方をする夫妻とイザベルの家族は先ほども書いたように古い親戚関係にあり、この二つの親族に二十年ほど交流が無かったとされているが、それもついでのように作者が書いているので、金銭に対する価値判断に違いと云うそっけない書き方は重要な事項なのだろう。つまり金銭をどう考えるか、お金に対する距離のとり方がジェイムズの小説を読む場合は非常に重要であることは良く指摘を受けるところである。まあ、それはともかくとして、そんな二人に一粒種の、ラルフ・タチェットと云う青年がいる。かく云う意味でイザベルとラルフは従妹関係と云うことになるわけだ。ラルフは、若いころは将来を嘱望される青年であったが、生涯の最も輝かしい時期に持病が顕現化し、それがどうやら士に至る病であったらしく早世の運命を予告されることになる。その時から彼は人生を降りてしまう。つまり我儘になるのである。我儘が公認されると云っても良いだろうか。しかし我儘と云っても幅広い見識と透明な感受性に裏打ちされているので、他者に対する思いやり以外は目立たないような優れた魂の持主へと成長している。そんな彼と老タチェット氏は共に、人生を降りてしまった者同士として――一方は生き尽くされた生涯の残りとして、他方は生き切れぬまま残された未完の課題でもあるかのように――異なった意味ではあるが、もはや人生を余生として達観した者同士として、秋の夕暮れのような静かな訪れう人とて稀なイギリス風の閑雅な生活を送っている。

 物語はそんなイギリスの片田舎の、カントリーハウスの芝生に面した三人の紳士たちの語らいのお茶の時間から始まる。三人とは、タチェット親子と、近隣に住まいする広大な荘園を保有する伝統的な貴族であるウォーバートン卿である。ウォーバートン卿は祖先から受け継いだ巨額の資産の他に国務大臣クラスの社会的地位をも得た紳士である。この彼も、何故かこの歳まで独身である。ラルフは、病弱ゆえに生涯における恋を仰ぎ見るものではあっても自らには叶えられないものと達観している。一方この世で手に入れることが出来るほどのものは既に経験したかに見えるウォーバートン卿が独身であることの理由は、彼が貴族階級に属しているにもかかわらず自らの前提を否定してみせるダンディズム、その共和政的な急進的な思想にある。彼の開明的な教養と素養は所詮伝統的な貴族社会の姑息因循とは相いれないからである。そうした彼にとっては理想の花嫁候補とは、当然のことに貴族社会の中には見出せないと云うことになる。そんな彼らの前に、まるで降って湧いたハプニングのように、伝統的なヨーロッパの価値観や古い伝統や風習とは一切無関係なアメリカ娘が忽然と、タチェット夫人に連れられて、広い世界を見聞すべきだと云う彼女の見識と助言に助けられてカントリーハウスを訪問すると云うのである。
 男三人集まれば何とやらで、高度の見識と教養、それに加えて高い社会的地位を兼ね備えた彼らにしても、議題は果たして彼女は美人だろうかと云うことであった。美人であるとは、ジェイムズの場合は魂の美しさをも意味している。

 こうしてまるで『かぐや姫』のような花嫁求婚譚をめぐる古典的なお話しが展開するのだが、莫迦らしいのでその詳細は省略する。彼らに加えてもうひとり、キャスパー・グッドウッドと云う青年が遥々東海岸から海を渡って参戦してくる。このスポーツマン型の自然児のような万能選手が、度重なる求婚と手酷い挫折感から物語の最終場面に至る展開の中には、数ある求婚者群像の中でも少し異色な面があるので機会があれば別に論じてみたい気がするのだが、何よりもそれ以上に異質なのは悪役ギルバード・オズモンドと、見えない彼の不可視の愛人マダム・セレナ・マールである。金もなければ社会的な地位もない、しかも子連れの寡男が如何にして花嫁争奪のレースの唯一の勝者となるのか、意外とするところである。

 古来恋とか愛とか云われるものは不思議なものである。ギルバード・オズモンドとマダム・セレナ・マール、この二人に卓越した女性と褒めそやされるイザベルが運命的に付け込まれる原因となったのは、タチェット老人が遺言として残したイザベルに与えた資産にある。イザベルへの資産?その理由は、ラルフの中で理想化されたイザベルに対する思い、思慕の昇華としての懇願に従ったものである。この秘密は物語的世界ではイザベルの眼には伏せられたままなのであるが、この遺産を絶好の食餌として二人のコスモポリタンのハイエナのように食いついてくるのである。

 二人が仕組んだ婚姻劇は巧みなものだったとされている。しかし誰に目にも明らかな、資産目当ての見え透いた大嘘がなぜか”聡明”であるはずのイザベルには見えないのか。ラルフが危惧感を抱き、タチェット夫人と親友のヘンリエッタ・スポックホール(アメリカの新進の雑誌記者)が明確に意図を見抜いて助言し反対し、挙句にはオズモンドの実妹ジェミニ伯爵夫人ですら不純なものを感じて懸念の表明すると云うのに。かく、関係者の全てが大なり小なり仕組まれた婚姻劇の不吉さを予感してるにも関わらず、イザベルだけが聞く耳を持たずとばかりひとり猛進する。

 つまりいくら聡明で知能指数が高くても、ここまで人の意見に耳を貸さないと云うことは社会人としての未熟さは言うに及ばず、想像力が不足しているのであり、どう云う点をとって彼女が卓越した女性であるとジェイムズが云っているのか、大いに疑問とされるところなのである。彼女は本当に聡明で卓越した女性であるのか。