アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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神なき時代――バーンスタイン、ルイ・マル、ヘンリー・ジェイムズ アリアドネ・アーカイブスより

神なき時代――バーンスタインルイ・マルヘンリー・ジェイムズ
2013-06-02 08:58:43
テーマ:文学と思想

神なき時代の語感を、神のみを信じるというように変換できると云うご意見は、わたしの意を満たします。これは『カディッシュ』におけるバーンスタインの非力な神さま、老いたる神に通じます。天地創造の結果自信を喪失した神にここでは、人間を信じて!と訴えるのです。この啓示は、意外なことに、予想外の形で、最も啓示に相応しくない場所、代官山で不意に、迷い込むように訪れました。連日の春の日の行楽に疲れて、体力の限度を遥かに超えてものも云いたくないと思えるような段階で、活動と歩行で重たくなった肉体が精神の重みと拮抗しえるような段階に達したとき、あるいは平行棒の上で上半身と下半身の先端が震えて静止したとき、えてしてこの種の啓示は起きるかのようです。修行僧たちが、山にこもり、砂漠で荒野で呼ばうるものとなるように。

映画『恋人たち』では、ラマン(愛人)の複数形、この突き放した感じ!全てに飽き飽きしたブルジョワジーの妻に起きる日常の啓示!そう、彼女は震えるような予感におののきながら、デュラスの”ロル・V・シュタインの歓喜!”のように遂に笑うのです。過去の響きのように、あるいは自分とは別の出来事のように。また、一方では、怖いわ!と。恋人の胸に顔を埋めながら、じっと恋人の肩越しに眼差しを落とします。ブルジョワの妻は、眼差しの先に虚無をみていたに違いありません。
 この映画の素晴らしさは、愛よりも恋よりももっと根源的な形で、背徳が生まれてくる現場を描いている点ですね。背徳は悪徳ではありません。世俗内悪徳ではありません。この世の地上性を超えるとき、背徳と聖なるものは区別が付かなくなってしまうのです。この人妻は意図的に悪徳を掴みました。悪徳を掴んだつもりでした。しかし正確にはそれは背徳でした。背徳がその内面的内在的形式においては聖なるものに類似していることは、その人妻にとっては思いがけなかったことでしょう。それは趣味の悪い冗談以上のものとは思えなかったでしょう。だから笑ったのです!人は自分が理解できない事態に直面したとき笑うのです。怖ろしい笑いです!怖ろしい凍りつくような笑です。

 フランス映画の魅力は、いっけんポルノグラフィーとも思えるような軽めの映画にすら、宗教性が不可視の構造として顕れることですね。当時26歳の映画監督ルイ・マルがこのような老成した宗教的な意図をもって、かく観照的な態度を描き得たと云うのも最も不思議な気がします。性風俗を描いて、意識を超えて、意図しなくても結果的には聖なるものの痕跡を結果的に描いてしまう、しかも目に見えない超越の先‐言語的な構図として。流石フランス映画ですね。国民性なのでしょうか。それとも言語がもともとそうした構造や性質を内在したとでも云うのでしょうか。

 同様に、アメリカの文学者ヘンリー・ジェイムズが試みたことは、散文でなにが可能か、どこまで芸術には可能かと云う態度ですね。ここで思い出すのはやはり先の、フランス語と云う言語が声に出して聞いてみて初めて完成するような言語らしい、と云う点ですね。これは憶測です。想像です。たぶん言語に詳しい誰かが指摘していることだと思います。書かれた文字ではなく、日常的な対話でもない、その中間の、それでいて決して孤独ではないモノローグ、ジャンヌ・モローはこの映画で語るのです、幾様にも、映画『モデラート・カンタビーレ』においては反対に失墜する殉教を、殉教と剽窃との関係を、背徳が聖なるものと犯罪とが区別しがたく見えてくる超越的なものの顕現の現場を、そしてそれから長い時を隔てて、何十年もたって彼女はもう一度、デュラスの映画の中で、もう一度語る機会を見出します。ヌーヴェルバーグ時代の初めと終わりに、戦後の黎明期と終焉期を見据えたかのように、そして自分自身の女であることの終わりを予期し自覚しながら、時を隔てた、ラマンの複数形と単数形お相関関係として、象徴的ですね。デュラスよりも、ジャンヌ・モローと云う女性に戦後そのもののドキュメントをわたしは感じるのです。もし一人の女優に、偉大さを感じるとすれば、それは将に彼女に対してです。

 他方、ヘンリー・ジェイムズが殆ど一世紀以上も前に結果的に受けとった文体も、かく、このようなモローのモノローグのような、声に出してみることで初めて両者の間に響き合う文体であったようなのです。両者とは?この場合、作者と読者でもありますし、あらゆる思考の対立軸を起点として考える場面に応用が可能なものです。要するに孤独な近代的個人の告白や内的独白ではなく、言葉が実在として響き合う、宇宙を振動させるような言語が持つ――この場合はフランス語ですが、フランス語が持つモノローグのテンポ(文体)であると云うことでしょうね。不思議なことにフランス語は孤独を語りながら孤独であることが無いようなのです、わたしには分かり難いことですが。それで、ジェイムズの方に話をずらすとすれば、結果的にヘンリー・ジェイムズの文体は、几帳の陰で、問わず語りに語れれた、あの源氏の文体に幾分似ているのです。この文体もまた、”語り”とでも呼べる文体の様式であり、告白や内的モノローグのように、自己と他者の関係が鋭利に屹立する、近代の文体ではないのです。言葉は宇宙を満たします。自他と宇宙空間を隔てて響き合うのです。時を隔てて時がそれ自身を言語として語り、言葉と云う形を借りてそよぐ枝葉の震えが森羅万象の響きを実現するのです。これをしも、かってフランスのある詩人が云った、コレスポンダンスの意義ではないかと思うのです。

 フランソワーズ・サガンは、作家とはその背後に一定のテンポを刻むものだと云うようなことを申しました。人生のテンポとは、自らの実存とは関わりのない客観主義で語ると云うことではないでしょうし、赤裸々に自らを語ると云うことでもないでしょう。それは主観を超え客観を超える、超人称の語りなのです。