アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画『ワーロック』(上)アリアドネ・アーカイブスより

映画『ワーロック』(上)
2013-06-04 00:16:39
テーマ:映画と演劇

 

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 単純明快な西部劇かと思っていたら、先が読めないほど混沌としたドラマだった、と云うのが第一印象である。『ガンファイター』(1961年)にも感じたのだが、50年代に大量生産された西部劇をみたアメリカの観客は後にハリウッド調として一括されるような単純なものではなかったと云うことだろう。拳銃を持つて善悪が対峙する暴力的な世界から今日あるよなヴァイオレンス映画を想像するならば期待を裏切られるほかはない。西部劇と云うのだから流血の惨事があり、その暴力的な風景をめぐって様々に分岐する登場人物たちの群像が実に多面的であり、魅力的なのである。

 『ワーロック』は先に高い評価をした『ガンファイター』よりもより高度な作品と云えるのではあるまいか。リチャード・ウィドマークヘンリー・フォンダアンソニー・クインと云った西部劇全盛期の俳優の三人の競演で、まず彼らがどのように2時間の映画的世界を支配するのかと云うのにまず興味を持った。
 
 物語と云うのは、ここに無法者のの脅威に脅えるワーロックと云う小さな村がある。設定だけをとってみれば『七人の侍』に似ている。アメリカ映画だから民衆は絶対的に弱者であり善良だから、きっと弱きを助け強気を挫く正義の味方が現れて胸のすくようなドラマになるのだな、と想像しがちである。ところが大筋はそうでも、少しニュアンスが違う。
 村の住民はこれ以上サンパブロ牧場の悪童どもに蹂躙される屈辱的な生活に終止符を打つべく村人で形成される村会で民間の保安官を雇い入れる。正規の保安官が当てにできないのは、80キロも離れた町にいる郡保安官の兼務業務と現地で雇い入れる保安官補が長続きしないためでもある。つまり民設の保安官とは、良く云えば今日で云うガードマン、正確には用心棒なのである。この用心棒クレイをヘンリー・フォンダが演ずる。彼には謎の同僚のトム・モーガンアンソニー・クイン演ずる賭博場の興行主が同行している。その理由は最初のうちは分かり難いのだが、映画を見ているうちに次第にその恐るべき姿が明らかになる。

 雇われ民設の保安官クレイは、高給を求めて町から町を渡り歩く用心棒である。何か正義感なり使命観を持って生きているわけではなく、彼らを動かすのは経済的な理由が主でありその日暮らしの享楽に生きる。そんなヤクザナ暴力団まがいの男に村の治安を任せて不安はないだろうか。噂によれば彼に村の治安を依頼すると、なるほど当面の悪は一時的に一掃されるものの、今度は彼らの存在が不気味な不可視の暴力装置として、新たな陰の支配者として村を支配しはじめると云うのである。村会は用心棒のかかる正負の評価をめぐって紛糾するが、結局、当面の利害に急かされるようにクレイに村の保安を依頼することになる。

 こうして最初のサンパブロ牧場の悪童どもとクレイの対決がある。悪童どもは闘わずしてクレイに貫禄負けした格好となる。悪を持って悪を制すると云う村民のプラグマティスムは上手くいくのだろうか。
 
 いっけん仮初の平和を維持しているかに見える村に事件が仕組まれる。仕組んだ本人は、あの用心棒に影のように付きまとう流離の興行師モーガンなのである。モーガンとは何なのか、モーガンとは誰なのかと云うのがこの映画の最後に現れる問いである。そう云う問いを持ってみなければこの映画は普通の西部劇と云う名の活劇にすぎない。

 事件は、次のようにして進展する。
 村の中では活躍の場を失ったサンパブロ牧場の悪童どもが村で悪さを出来なくなった腹いせに、家畜を盗んだり村と町とを結ぶ駅馬車ルートで強盗事件を頻発させると云うものである。あるとき、その駅馬車にはクレイに恋人を殺されて復讐を誓うリリーと殺された恋人の弟が乗っていた。ここからが話が少し複雑になるのだが、悪童どもが駅馬車を襲ったとき、意外なことに木陰から一発の銃弾が飛んできて恋人の弟を射殺してしまう。狙撃修は意外なことにあのモーガンなのである。幌馬車は混乱に乗じて逃げ去るけれども、悪童どもも見えない敵に脅えて戦意を失い逃亡する。
 この事件の異常さは通常の駅馬車を襲った強盗殺人事件であるのを装った事件に第三の犯人がいたと云う点だろう。生き残った乗務員やリリーの証言により牧童たちの殺人罪は証拠不十分として放免される。新保安官クレイは、三人目の、見えない敵とは誰だったのかと疑念を抱く。一方、形勢が自分たちに有利な方向に展開しつつあると感じている村民は、逮捕された悪童どもに吊るし首にして咳年の恨みを果たさんと牢獄に詰めかける。保安官事務所の扉も破壊されようかと云うようにまで一時は紛糾するが、クレイの一喝にあって村民の暴動は一時的に納まる。

 物語は、次の不慮の事件をめぐって次の段階に移行する。
 サンパブロ牧場の悪童たちにすれば、無罪放免になったとはいえ幌馬車襲撃の被告として裁判所に引き出されたことと云い、村への出入りを禁止させられたことと云い、新保安官クレイに従事られていることが許せない。いつかはクレイと悪童どもの全面対決が避けえないような雰囲気の中で時間は経過する。
 この段階になって、サンパブロ牧場の悪童どももまた一枚岩でないことを明らかにする。彼らのグループジョニーは悪童たちの残虐放埓な生き方から足を洗いたいと考えている。彼はある日悪童たちの行為に溜まりかねて村に留まることを決意し、あろうことか保安官補に立候補する。

 対照的に彼の弟ビリーは19歳で悪なるものの生き方に憧れを感じている。親分たちにそそのかされて彼はクレイに勝負を挑み、不慮の原因で命を失う。ビリーとしては正々堂々の対決のつもりであったが、密かに街角に伏せた狙撃手をモーガンに見破られて被弾した三発の銃弾を皮切りに、連鎖的な銃撃戦が行われ牧童側三名が死亡する。その中には正当防衛で打ち返したクレーの銃弾を浴びたビリーも含まれる。しかしここで意味深長なのは、銃撃戦の起点となった狙撃兵を三発の銃弾で狙撃したモーガンの腕前である。それから後に明らかになるけれども、殺し屋の異名をとるクレイの先歴に何時もモーガンの影があったことだろう。kの謎についても映画は次第に核心を明らかにしていく。一方ビリーは兄ジョニーの腕に抱かれて、伏兵の存在を自分は知らなかったと云い残して死んでいく。
 
 こうして村は、村の外に押し出されたサンパブロ牧場の暴力団と、村の委員会に金で雇われた民設の保安官クレーと、正式に郡に採用された保安官補のジョニーの三者が鼎立すると云う奇妙に捩れた配置となる。正確に云えば法の番人たることを選んだジョニーの純粋さを疑わないとすれば、目に見える悪と目に見えない不可視の悪と云う二つの悪の様態に、同時にたった一人で闘わなければならないと云う善悪が割合明確な西部劇では前代未聞の状況が出現する。しかも新保安官補ジョニーに好意を寄せ始めたリリーは、彼女の真意が真実の愛なのか復讐の手段として利用しようとしているのか、疑問の余地がある。映画の筋がもう少し進展すると、リリーは復讐の相手であるクレーの部屋を訪れて復讐が意味を失ったこと、只管ジョニーを助けてくれと懇願しに行くのであるから、彼女の内面に生じた回心は疑うことはできないだろう。
 この時リリーはクレーに重大な秘密を明かす。殺された恋人をクレーと対決せざるように追い込んだのはモーガンであると云うのである。偶然部屋に行ってきたモーガンは二人の緊張した様子から、話の内容が自分に関するものであることを察知する。逃れるように部屋の外に出たリリーを追って、クレーが知らなくてもよいような事実を知らせるものは誰であれ、クレーを守るためには誰であろうと殺す!と宣言する。リリーといえども例外ではない、と。リリーはモーガンが執拗に自分に対して恋心を抱いていることを知っている。それでリリーは咄嗟に、なぜそこまでしてクレーを守るのかと聞く。クレーだけが自分を人間として扱ってきたからだと答える。同士愛と云うか腐れ縁と云うか、二人の半ば同性愛のようなものを暗示させて不気味である。あるところではモーガンは、クレーは自分の宝のようなものだ、とも云っている。異性愛よりも強い愛とは何なんだろうか?

 次の段階は、村とサンパブロ牧場の悪童どもとの最後の対決の場である。生き残ったニ十名足らずが全て出てくる。待ちかまえるのはジョニーただ一人、何となれば彼は正式の郡から任命された保安官補であるのだから。両者の対決の模様をニ階の窓越しから見ながらクレーとモーガンが何げない話し合いを始める。いよいよ時期至ったと感じたクレーが助太刀に行こうとすると、擦れ違い様クレーの腰から拳銃を抜き取ったモーガンは彼を部屋に監禁し、動けないようにする。
 しかしここでも事件は意外な方法で解決する。通りに呼び出されたジョニーが悪童たちと対決したとき、一対一のルールを無視して仲間の一人が横合いから狙撃しようとする。それを今度は心変わりをした牧童の一人が発砲し、それが引き金となって発砲した最初の数発で牧童たちのリーダーとサブが相次いで銃弾に倒れたのをみて悪童たちは全員が戦意を失う。それをみた町の男どもも全員銃を持って立ち上がり、奇妙な形で村民自身の手で村の自治が恢復される。

 クレーは用無しになったのか。モーガンはジョンジーを倒して保安官であることの存在意義を見せつけるべきであると云う。君は保安官でなければ何ものでもないのだと。
 しかし長年、自分の殺害の現場の陰に常にモーガンがいたこと、彼の陰に操られていたことを知ったクレイーはもはやモーガンとともに行動しようとはしない。クレイーア自分にとってモーガンとは何なのかと自問する。常に争いを求めて、その中で生き死に活路を求めて、闘い続ける事の中にしか日常と云うものがあり得なかった自分たち二人の、余りにも通常の人間とは異なったあり方にあったのではないだろうか。クレーは不思議と決闘に価値続けた。しかし背後に有能な狙撃手モーガンの存在があったからではないのか。クレーはモーガンの前に、ジョニーと対決する理由を見いだせないと告白する。
 一心同体であると思ってきた友人を失っただけでなく、生きることの根拠を失ってしまったモーガンは自暴自棄になって酒場で拳銃をぶっ放し、村民全てを敵とする。夜中に保安官補ジョンジーの名を呼ばわり自分と対決するように云う。ジョニーの危機を察知したクレーはジョニーを訪れ対決を避けるために彼を牢屋の中に監禁する。そうして自分が出向いたクレーはモーガンと対決し、先に発砲したモーガンの銃弾は何故か外れ、モーガンはクレーの銃弾に倒れる。
 クレーはモーガンが死んでみて、モーガンが何であったのかを理解する。いわばどこを向いても正義と義務の観念だらけのこの世の中で、右を向いても左を向いても生き方が分からない自分のような人間に、それでも生存の根拠を与え続けた、その生存の根拠とは世の中のルールとは倒立した関係にあるために、生存の根拠であるとともに死の根拠でもあり得るのだが、その必要悪ですら自分からは失われたのである。クレーにとって許せなかったのは、敗者に転落したモーガンが後ろ姿に受けた村民の罵声であった。強気を助け弱きを挫くこの世の論理が到底許し難いものだと彼の眼には映じた。酒場に火を放ってモーガンの火葬の儀式に変えながら、彼は村民に全員帽子を脱ぐこと、脱いで讃美歌を歌うことを強要した。彼には、死者に対する敬意を欠いた世界が許せないものに映じた。

 彼は憎悪した、特に誰と云うことなく憎悪した。彼の敵意は世界全体に向けられた。もし彼が神であるならばこの世を憎悪の炎で焼き尽くしたいとすら思っただろう。それと云うのも、この世のあり方が、一個の死者に向けられた荘厳に、少なくとも価するようには思えなかったからである。