アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

映画『ワーロック』(下) アリアドネ・アーカイブスより

映画『ワーロック』(下)
2013-06-04 15:50:52
テーマ:映画と演劇

http://ec2.images-amazon.com/images/I/51voUHvFt6L._SL500_AA300_.jpg

 
  この映画では、悪と云われるものが、倫理と見極め難く混沌としていくさまが描かれる。根源悪とは、人の善悪の判断を超えて存在する、罪深き人間の実存の様式である。そこには間違いなくドストエフスキーのイワンのあの問いの遠い木霊がある。数億光年の彼方に神による最後の審判が行われて世界が浄化され祝福の法悦の中に、ありとしあらゆるものの存在が賛美の歌を歌ったにしても、寒さの中で凍え震えて死んでいった幼き子供の一個の死に釣り合うものがあるわけではない、と云うあのイワン・カラマーゾフの問いを!
 悪が、その悪魔的な破壊的衝動が見極め難いほど聖なるものに隣接していると云う驚くべき問いこそ、最後に委託保安官クレーが最後に辿りつくことになる問いなのである。モーガンとは誰なのか?クレーにとってモーガンとは、十年来の友であるとともに、何を意味していたのか。彼に死によってその問いが無意味となったとき、彼の生存の根拠が失われる。


 この世にたった一人となったクレーの眼には、本当の自分自身にとっての敵とは、この村民の全体であり、世界の全体であることが明らかになった。彼は町全体を焼き滅ぼしたいほどだった。しかし騒ぎを起こしたクレーを保安官補ジョニーは逮捕せざるを得ないだろう。そうして最後の夜が明ける。

 翌朝、クレーとジョニーは通りの中央で対峙する。クレーは2丁拳銃で完全武装の姿で登場する。力量の違った相手にこれは過剰な演出であると云うべきだろう。
 先に拳銃に手をかけたのはジョニーだった。しかし次の瞬間ジョニーが見出したのは既に自分に向けられたクレーの右側の銃口の存在だった。そして意外なことにクレーは手品でもするように拳銃を手から滑り落として見せる。そこにクレーの隙がある。しかし銃に手を書けても一度同じことが、左側の銃口で繰り返される。それはまるで優雅な舞踏か宗教の儀式ででもある。腰の二丁拳銃を投げ捨てたクレーは無言のまま村を去っていく。「THE END」

                       ◇ ◇ ◇

 不思議な映画である。単純な勧善懲悪の劇と異なるのは、村の若い保安官補の青年が二つの悪に立ち向かわねばならないと云うストーリーにある。
 一つは目に見える悪。もう一つは目に見えない悪である。前者はなされた行為としての悪事だが、後者はわれわれの倫理観や価値観を揺るがしかねないような、根源的な悪である。ひとの善行や矜持の背後に密かにすみついて、人々の運命を狂わせるもの、そうした根源悪と対峙したとき登場人物たちの反応は様々であった。
 クレーは決闘と云う事態で已む無く人命を損なわざるを得ない場合の鉄則を、自分自身に化した倫理的な原則を云う。最初の頃正と防衛であっても吐き気に襲われたと。殺人とは理由の如何に関わらず、それを自分自身の前に合理化して見せない態度だけが許されるのかもしれない、と。
 モーガンにとっては、クレーのような倫理をめぐる選択は最初からあり得なかった。なぜなら人はある種の観念を持つと云うよりも、その存在自体が呪われたモーガンのような人間もいるのである。ジャンヴァルジャンのような物語だけが有益なのではない。もし根源悪そのものと云える人間がいた場合に、彼の生存は許されるのか、と云うのがこの映画の本質的な問いである。この問いを解くのが難しいのは、根源悪を体現した人間といえども人間であるからだ。モーガンがクレーに命をも捧げたいほどの友情を感じたとすれば、彼だけがモーガンを人として扱ってくれたと云うのである。俳優アンソニー・クインは、びっこを引く陰の悪役とも云える男の愛憎を演じて秀逸である。
 リリーを演じたドロシー・マーロンも素晴らしい。この人は静止画像と云うものがなく、ものを云う場合に先立って絶えず顔の筋肉の何処かを微妙に動かして見せるのだが、それが見ている側からすれば吹き替え画像の表情と声が一致しないような不思議な感じを与える。表情は動いているのに発声が追いついていないと云う奇妙な感じは、言外の沈黙の言語とでも云えるようなこの女優さんに固有の神秘的な表現法である。それで何も云わなくてもそこにいて表情を微妙に歪ませるだけで映画を存在感で満たすのである。
 若きリチャード・ウィドマークの非力な青年保安官もいい。青年の身の程知らずと云うか、見透しがないと云うのか、それが若気の無思慮さと云うよりも、人間が置かれている状況は様々で、理想的な条件などありはしないし、それを待っていたら永遠に時期を逸するであろう。若き理想のままに即断実行すると云うところが良いのではなく、所詮は経験のあるなしに関わらず、人間の意思ではどうにもならない偶然性の占める余地の方が大きいのである。ならば見通しが聞かない迷路のような行動の原則を見失いがちになったとき、最後は偶然性とは禍だけを結果するのではなく、同様に幸いに転ずるかもしれないのであるから、最後は達観して賭けに出る、と云うのも必要な行為なのである。しかし考えてみれば不可視の悪と対決するのに、偶然性だけを頼りにせざるを得ない生き方と云うのは限りなく孤独である。勿論、映画ではドロシー・マローンの演ずるリリーの沈黙の言語と云う助成があるにはあるのだが。最後の夜、二人は結ばれる。それがクレーの行動に影響を与えたか否かは分からない。
 この映画は、経験の足らない非力な青年が、目に見える悪と、目に見えない不可視の根源悪とに同時に、たった一人で立ち向かわなければならなっかった時の、行動原則のようなものを教えている。人間には絶対的に孤立無援と云うようなことは厳密にはない。偶然性と時を重ねて慎重にチャンスを見守ることによって。その教訓こそ悪童どもにたった一人で立ち向かったときクレーが唯一の助力を申し出たあの夜クレーが彼に語った事ではなかったか。根源悪すら偶然性を相手にした場合は万能性を発揮することが出来るとは云えず返って五分五分と云えるのではないのか、人間の純粋な意思は時に時局を動かすことが出来ると云う意味はそうした意味である。むしろ万策尽きたとしか思えない絶望的な状況では、経験や思慮判断を超えた純粋無垢なものこそ人を動かし得ると云うことを語っている。
 それを映画は明示的には語らないけれども、矜持や復讐の怨讐を乗り越えて懇願する事だけのために跪いたリリーの中にクレーが認めたものであったのかも知れない。

 最後に、ワーロックとは何処なのだろうか?
 住民が自らの平和を自前でなく、金の力で安易に買える信ずるとき、そこに付け込んでくる勢力がある。ワーロックの住民とは戦後の日本人のようでもある。外なる可視的な悪とは、例えば北朝鮮のようでもある。可視的な悪の脅威に対抗するために力を借りた相手とはアメリカの軍事力であるようでもある。アメリカの軍事力は単なる軍事力としてでではなく、仮想の装置に対する抑止力と云う不可視の神話を形成する。その抑止力を生み出す土壌が、クレーの長年の刎頚の友たる賭博の興行主モーガンに象徴される。モーガンとはアメリカの資本のようでもある。常に世界のどこかで戦争が起こっていないと自らの存在論的根拠づけに困るのである。軍事力を生みだし、その存在理由を証明し発揮させ根拠を与えるモーガンとは、アメリカの資本以上の存在のようでもあり、彼は本当のところアメリカ社会の中の誰なのか、映画の終わりでクレーが直面する問いとはこの問いである。そうした根源的な問いを提起している限りにおいて、この映画は今日においても現代的な映画である。