アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの文体とバロック絵画 アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズの文体とバロック絵画
2013-06-05 21:37:54
テーマ:文学と思想

 

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/El_Greco_-_The_Burial_of_the_Count_of_Orgaz.JPG/300px-El_Greco_-_The_Burial_of_the_Count_of_Orgaz.JPG エル・グレコ≪オルガス伯爵の埋葬≫1586-1614
                                       油彩 460×360 サン・トメ聖堂 トレド、スペイン


・ フロベールが『マダムボヴァリー』で描いたのは平凡の中にある真実である。『感情教育』では、いわゆる感情教育なるものはこの世にはなく、歳を降るにつれて青年は美しいものを次々に失くしてしまう、それは19世紀中葉の、人類が啓蒙的理念とともに見出した普遍的歴史の喪失として重ね合わせて語られたことによって意義を持つ。それらは通常リアリズムと呼ばれるものよりはもう少し深い深度を必要とする。
 バルザックフロベールの弟子としてのジェイムズが文体上の実験として用いたのはバロック絵画における現実と聖なるもの、超越的なるものをめぐる、極限化された現実の奥行きであった。
 ヘンリー・ジェイムズにおける近世近代絵画との出会いや、美的な趣向や教養的な趣味の一致などと云うことを遥かに超えている。生涯の後半を主として大英帝国の首都ロンドンで過ごし、人生の大半をヨーロッパ大陸を放浪し、様々な美的なものへの巡礼生活に明け暮れた彼であってみれば、絵画の体験が受肉化された素養の一部となっていないと考える方がおかしいのであろう。
 ヘンリー・ジェイムズの文体は、三人称客観主義による対話態と、間接法と呼ばれる情緒纏綿とした朦朧態による語りの、自在な文体の相互転換による、自在な遠近法による空間の捩れや歪みを映し出している。その特徴は後期になるほど顕著であり、特に『黄金の盃』における聖性とおぞましき不気味さは比類がない。
 こうした現実を、複眼で見つめると云う方法は、例えばエル・グレコの『オルガス伯爵の埋葬』やルーヴェンスの『マリー・ド・メディシスマルセイユ上陸』などの、上下二段に聖なるものと現実を並べて表現するバロック絵画の方法なくしてはあり得なかったのではなかろうか。
 ジェイムズの小説は最低三人称客観小説の対話なり叙述を読んでいる限りジェイムス固有の幻想的な世界から振り落とされると云うことはない。ジェイムズを読むとは、あらかたの概念図を海洋航海のコンパスのように頭に描きながら、時に濃霧や嵐の中に突っ込むように、聖なるものやその反対のおぞましきものに直面するのである。現実と超現実を同時平衡に描くジェイムズの手法を人工的であり不自然であると感じる人があるとすれば、その人は現実と云うものを知らないのである。

 わたしたちは強固な現実を仮定し自明なものと思っている。人生7、80年、遂にかかる自明さが一度も破綻することなく生涯を終える幸せな人たちもいる。しかし現実とはインドの神話が語るように一匹の強大な像の双肩に懸っており、その像は一匹の亀の上に乗っている。つまり夢みる象と亀が二重に紡いだ世界が、倒立の倒立として、反転した現実と云う世界の意味内容のすべてなのである。
 この神話が意味するところのものは、現実とは人と人との口約束によって成立する意味論的な慣習的な世界に他ならないと云う点である。慣習的とは習慣と伝統と言語を含み、人と人とがある信頼性の元に相互に繰り返されて確からしさを取り戻した第二の現実の如きものである。インドの神話が教えていることは、人は現実的であろうとするとき観念論的な神秘の回廊を通してしか現実的なものは実現できないと云うことを語っている。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bb/Peter_Paul_Rubens_035.jpg/180px-Peter_Paul_Rubens_035.jpg ルーベンス≪マリー・ド・メディシスマルセイユ上陸≫
                                   1621―25年
                                   油彩 364×295㎝ ルーヴル美術館 パリ
                              
 エル・グレコルーベンスが生きた17,8世紀、現実とは地中海世界を彷徨いながら”あのギリシア人”と呼ばれたグレコのようにも、また宗教改革と対抗宗教改革の挟間に生きたルーベンスのようにも、現実とは頼りないものでしかなかった。そこに不自然に引き伸ばされたグレコの哀願する歪んだ眼差しが、人懐かしいルーヴェンスの人肌の、愛惜としての人肌の温もりがある。
 ジェイムズの文学が描こうとしたのは、新旧文化の狭間にあって、それを主としてバロック絵画から得た幻想的なリアリズムとでも言えそうな複眼的な手法を用いて、複雑な現実の全域を宇宙論的体系として描くことであった。
 今日に於いてヘンリー・ジェイムズの文学の何を最も顕彰すべきかと考えるならば、20世紀文学に与えた文体上の実験や、現実が形成されい以前の意識を意識の流れとして定着した独特の文体や、聖なるものからおぞましきものまで人間を幻想的な動物と定義し、形而下から形而上まで存在論的な現実の断面の全層を描いた点にあると思うのだが、それにもまして大事なことと思えるのは、近代文学が意図的に避けてきた悪の感覚、根源悪との勇気を持って対峙すること、であったように思われる。

 かかる意味に於いて、ジェイムズはドストエフスキーの同時代人なのである。両者の違いは、ドストエフスキーは異常な状況下の異常を描いたのだが、ジェイムズは平凡な現実の中の異常を描いた。その優越の違いを論ずるとすれば、結局は文体の差を論じることなのである。
 かかる意味に於いてジェイムズはフランツ・カフカの文学の先駆者でもある。カフカの文学の特色は、主人公が生きようとするのに応じで、その真剣さの度合いに応じて現実が歪みの構造を持つ点にある。迷宮は先験的に自明視された構造としてあるのではなく主体の関与の度合いによって変化すると云うのである。カフカは、空間と主体の変容をとおして悪なるのに直面する。それは恐るべき世界いでありおぞま云い世界である。世界の存在論的構造としての悪の顕彰こそ皮肉なことにカフカの文学の最大の魅力の一つであった。ジェイムズとカフカの違いは、前者が無力であり非力であることに傷つきながらも、怯むことない勇気を持って対峙し続けた点である、聖なるものの篝火を掲げて!