ジェイムズの『ヨーロッパ人』――ロココ風小説について アリアドネ・アーカイブスよ
ジェイムズの『ヨーロッパ人』――ロココ風小説について
2013-06-10 11:18:16
テーマ:文学と思想
・ 『ヨーロッパ人』を読み始めて強く感じるのは、ジェイン・オースティンの秩序感覚である。一言で云えばヘンリー・ジェイムズは『鳩の翼』『大使たち』『黄金の盃』の後期三部作で、固有の間接的手法と呼ばれる技法と朦朧態とでも云えそうな語りの文体の混淆的使用法を駆使して、通常の写実的リアリズムでは到底到達できないような聖なるものと、反対の、下卑て下品で不吉で不愉快極まる悪の存在をバロック風の絵画に似せて重ねて描くのだが、その文体が齎す圧倒的な効果は厚みを持つた偉大なるシンフォニーに喩えることが出来ると思う。それが、この作品に於いては一転してロココ風の典雅さ、優雅さ、室内楽的な理知と明晰さと云う透明な光に一変する。ジェイムズを特徴づける悪なるものとの対峙は影を潜め、むしろ浄土的王国風の、全てがこの上ない善人で、人格的にこれ以上はないと思えるような人々――具体的には自分のことよりもまず他人のことを先に考えることを行動原則とし、美徳と考えるような人々が住む、この世とは思えない楽園と云う、皮肉な云い方をすれば、もう一つの地獄を描いた物語、であると云ってもよい。
家庭と云うもののあり方を知らず、身すぎ世すぎのその日暮らしをする高等遊民ユージニアとフェリックスの二人の姉弟が、食いつぶして伝手を求めて新大陸に遠い昔の従妹を訪ねると云う口実を設けて遥々と大西洋を渡って見出した国とは、ニューイングランドと云う雑木林と夕日が美しい浄土のような国だった。そこは森と湖が美しい天国のような風土であるとともに、そこに暮らす人々も、利己主義を否み、利他主義をあらゆる場合の行動原則とするピューリタン人々の末裔が住む国であった。しかしその浄土も最初、二人の姉弟の眼には違ったふうに映じた。フェリックスの眼にはヨーロッパにはない拘りのない風土と人格を感じたのであり、姉のユージニアの眼には対照的なことに、黒い衣装を着た個性を識別することが困難な人々の流れであり、陰鬱な曇天の空に聳え立つ尖塔の黒々とした影であった。
ボストンに到着した二人の印象はかくの如くであったが、ともあれ二人は遠い従妹たちを訪ねることにする。まず、聡明で何事にも用心深いユージニアは最初に弟を行かせその印象をきいて、改めて出向く。弟の印象は向日性の彼に相応しいもので、ここに彼は歴史を超えたような、ある種共同体の、プロトタイプの理想のようなものを郷愁として理解する。姉は気がすすまぬものを感じながらも、ここは弟とは違った醒めた認識を用いて、自分の名ばかりの”男爵夫人”と云う称号の効果を試してみたいと考える。
つまり、ヨーロッパ大陸のごくつぶしの二人が、男爵夫人とその大使と云わんばかりに、ボストン郊外のウェントワース家を”表敬訪問”するユーモアは素晴らしい。何と言っても、男爵夫人とそのご一行様などと云う人種は彼らにしてみれば見たことも聞いたこともない前代未聞の、椿事に近いできごとであるからだ。しかもこの安手のハッタリめいた”金ピカ”の御一行様を迎えるのが世にも奇妙なピューリタンの家族、この世の喜びや楽しみを罪悪視して考える、利己主義的な動機を前提としては何一つ行動が起こせないような、ニューイングランド気質の人々なのである。ウェントワース家と親しい隣家の人々については前の記事を参考にしてほしい。
自分の事よりも他人のことを優先して考える人々であるから、当然ホテルを引き払ってウェントワース家の別棟に移り住むようになる。姉弟の性格が対照的であるあのは前にも書いたが、フェリックスの性格は彼自身の善良さに応じて廻りを善良にしてしまうと云う不思議な性格がある。彼は当然のように従妹であるシャーロット、ガートルードの姉妹に親切にし、何時しか彼らの間で家族のように扱われるに付けて、ますますこの一点も陰りのない家族と人々が住む共同社会に自分が与えることが出来るものは何だろうかと自問する。身寄りも社会的地位もお金もない自分にそうしたものがあろうとはとても思えない。それで彼はガートルードの内に卓越した性格を認め愛するようになっても、愛するに足る資格が自分にあろうとは思わないし、夢考えてもみないのである。そんな彼が最後に決断できたのは、ガードルードの中に潜在的に秘められた完全なる人間の理想、それを掘り起こし、枯らすことなく育み育てたいと云う利他的な愛だった。つまり早まって決められた彼女の婚約と家族関係から解放し、つまり将棋の駒を正確に再配置することによって、周囲の従妹たちもまた正確で有意義な関係へと再配列されて行くような幕切れを用意する、物語を最後まで読めばそう云うことになるのである。
物事を万事醒めたふうに観察するユージニアは弟の行動の一切を傍目に見ながら自分は同一歩調を取ろうとは思わない。彼女はシニックなのではない。むしろ弟の良きものを尊重し、ニューイングランドのこの世離れしたした生活が持つ普遍的価値を認めてすらいる。家庭の温かみを知らない彼女にすれば、願えればここに住みたいと思わないことは皆無ではなかっただろう。ただ、彼女の見るところでは完全無欠とも思えるニューイングランドの生活にはただ一つのものが欠けていた。それは生を楽しむ事であり自由の感受性とも云えるものであった。それで彼女は数カ月が過ぎようとするころ、一族やアクトン氏の熱心なプロポーズの要請にも関わらずヨーロッパ帰国を決意するのである。
ヘンリー・ジェイムズの偉大さは、ニューイングランド気質とでもいえそうな生真面目な倫理観を墨守する人々と、ヨーロッパの古い伝統と貴族社会の理念と云う、もはやこの時代にあっては姉弟の経歴が暗示しているように、金ぴかの安メッキの骨董品のガラクタの寄せ集めが発光する幻想的絵物語に幻惑された人々の擦れ違いを描いただけの単純な物語なのであるのだけれども、そうした物語の粗筋とは別に折節に見せる、平凡さの中に秘められた偉大さと云うジェイムズの感覚である。
卑俗で下品で鄙びた俗世的組曲が、ある場面から転調して、厳粛なとも言えそうな聖なるものを讃えるコラールへと、荘厳性に光り輝く領域へと導くのである。たとえばユージニアが最初に弟を従えて借物の馬車でウェントワース家を最初に訪れる場面などは、実際は単なるハッタリの過剰演技に過ぎないのに、それだけとは言わせない奇妙な神妙で神聖な何ものかの感覚があるのである。
ヨーロッパで食いつぶして渡りの船を求めて新大陸に遣って来ると云うフェリックスの潜在化された下品な動機にしても単なる打算的人間ではない、彼の人としての節度、高邁な理想、どうしたら全ての人々の組み合わせを幸福にしてあげられるかと考える彼の人間性によって救われているのである。
もし渡りに船と云う機会を求めるだけのことであれば、ユージニアも当初の下品な目的は果たしたのである。アプトン氏の好意を受け入れ、中国を始めとする世界遍歴の経歴もあるハーバード大学出の自由人には、ユージニアに見劣りしないほどの経歴と知性の持ち主であるとは考えられるだろう。しかしロバート・アクトンはニューイングランドを世界で最も素晴らしい場所と考えており、逆にユージニアはここでは生きていけないと感じるのである。プロテスタント的な倫理観と、自由技芸のルネサンス風の感性の違いと云えばいいだろうか。しかし正直に、もっと正確な云い方をすれば、訪問客として客人対応される時期はいいのだが、そこに帰化して住み続けるとなると、”男爵夫人”のイメージに代表される理念の衣のメッキが剥げることを恐れたのだ、と云うことも出来よう。事実ジェイムズは彼女の住まうインテリア趣味を描写するのに、それが本物の貴族由来のものではなく、安ものの金ぴか主義を指摘している。また彼女は自分自身の過剰演技を十分理解しており、帰国に先立ってもはや自分の台詞は云い尽されたとの感慨を漏らしている。また実際面においても、ウェントワース家のもっとも若い世代、クリフォードとリディには男爵夫人の神通力が利かないのをある種の苦い断念の思いとともに認めざるをえないのである。
クリフォードとリディと云う若い世代がユージニアの中に見ていたのは、男爵夫人やその背後に後光のように控えたヨーロッパ貴族社会の華麗な文化ではなかった。クリフォードもまた人々とともにユージニアの中に華麗な貴族社会の幻影に感化されてはいたのだが、最後により即物的に確認するのはユージニアの上に、単なる老婦人の、写真のような正確で過ちのない映像に過ぎないのである。客観性と云う映像が持つ残酷さが極まったと退き時だと考える、彼女は一切の親切やアクトン氏のプロポーズも押し切って新大陸を離れることを決意するのである。
かくかようなように、ヘンリー・ジェイムズの偉大さは、同じ現実が見る人によって違っていると云うことを、巧みに描き分ける技量にある。それは20世紀の相対主義者やヌーヴォーロマンの作家たちが誤解したような、物事は違ったふうに見えると云う多元論的相対主義にあるのではなく、ジェイムズが偉大であるとともに素晴らしいのは、たんに見えるのではなく、現実もまた感じたままにその通りだったと云う可能性を排除しない彼の奥ゆかしさにある。つまり人は品性ごとに、人は違った現実を造り紡ぎ上げるのである。
高貴な人間は高貴な現実を、下品な人間は品性を欠いた現実を!
モーツァルトの音楽のような明晰さを秘めた『ヨーロッパ人』が数あるジェイムズの文学の中で特異な作品であることは間違いないことであって、この作品には他の作品にみられる不気味さや薄気味悪さが殆どない。音調はモーツァルトのように高雅であり澱みがなく、ジェイン・オースティンの文学のように格調が高い。しかし天国のような完全無欠さの中にも地獄があると云うことを、モーツァルトのイロニーのようにも教えてくれると云う意味で、いっそう不気味であると云うことも可能である。
『ヨーロッパ人』は室内楽としての光源の照らし方が絶妙で、場面ごとの切り替わり方が鮮やかである。そのわくわくした楽しみ方は、まるで舞台の照明係になったような新鮮な感動を与える。一転して暗い闇に閉ざされた幾重にも解釈が可能な『ねじの回転』や後期三部作の大規模なバロック風シンフォニーの世界とはまた違った味わい、明晰で透明で高雅で品位があって、これ以上ないと思えるほどの極上な豪華さと正確無比さを持つと云う意味で、先には室内楽を引いたが、モーツァルトのある種の小規模オペラ、『コシ・ファン・トゥッテ』の、あの有名なアンサンブルの、ロココ風柱列の白亜の連なりを回想させる!