アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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日本の純愛映画について アリアドネ・アーカイブスより

日本の純愛映画について
2013-06-11 15:45:23
テーマ:映画と演劇

・ 日本映画の中から、過去、エンターテインメントも含めて、ランダムに観てみた。選択の理由が作品としての芸術性よりもエンタメ性に重点を置いたのは、戦後の風俗としての世相を描くことに関心があったからだ。だから網羅的でもないし取り上げ方が適切であったか否かについてはご容赦願いたい。

・『ノルウェイの森』(2010/1987年)トラン・アン・ユン監督 原作:村上春樹
・『世界の中心で、愛を叫ぶ』(2004/2001年)行定勲監督 原作:片山恭一
・『冷静と情熱のあいだ』(1999/2001年)中江考監督 原作:辻仁成+江國 香織
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吉永小百合の『長崎ぶらぶら節』(2000/1999年)深町幸男監督 原作:なかにし礼
山田五十鈴の『歌行燈』(1943/1910年)成瀬巳喜男監督 原作:泉鏡花

 『ノルウェイの森』と『世界の中心で、愛を叫ぶ』は共通した構造、古典的なとも云える構造を持っている。この種の物語が違和感なく受け入れられるのは、どこかで聞いたような話であると云う既視感、一種の集合的デジャヴュのせいであろう。
 過去に美しい神話的な愛をめぐる出来事があり、その拘束力が余りに強いため、現在を現在として認めることが出来ず、それが結果的に生きることの喪失に繋がっている、というものである。・・・であるから、物語自体に論じるに値する問題はない。
 ここで取り上げたいのは『世界の中心で、愛を叫ぶ』の、2004年、2010年と云う映画化された時代背景の中での、愛や恋と呼ばれるものが当時どのように理解されどのように観客たちに受けとめられていたか、と云う点をととても興味深く感じるのである。
 『世界の中心・・・』が興味深いのは、白血病で亡くなっていくヒロインが、例えば『野菊の墓』や『風立ちぬ』の主人公とは全く違う描き方、それは生を呪い、生に執着する姿である。同様なことが『ノルウェイ・・・』ではもっと巧妙であり、作中”レイコさん”と名付ける現代の巫女のような中年の女性から受動的に性の秘儀を受けると云う形で秘匿されてはいるのだが、同様に、逞しいまでのヒロインの生への執着がみられる。
 本音として、ここまで生に対する執着があからさまに語られることはめずらしい。
 ちなみに堀辰夫の前記の『風立ちぬ』では、ヒロインは残された恋人の孤独を思いやりながら美しく死んでいく。また有名なアンドレ・ジッドの名作『狭き門』では、ヒロインアリサの執念は強いのだが実際には神への愛の陰に隠れて見え難くなっている。
  こうしたことを考えると特に片山の映画が、類例のない異様な映画あると云う感じがする。従来の文学愛好者が経験しなかった新しい体験、映像経験なのである。ここにこの映画の、風俗としての文化史的新しさがある。

 なぜ、こうなるのだろうか。

 それは片山の映画や村上などの現代日本の作家たちが描く愛の姿にある。とりわけ突出しているのは片山の映画であり、登場人物たちは自由恋愛の観念的理念の純粋さとか、婚礼と云う儀式に拘り、それを絶対化しているかのごとくである。
 つまり愛とか恋とかの概念が、最初から世俗内の出来事として自明視され固定化されていて、それ以外の選択可能性など全くないかのように考えられているのである。その考え方が持つ自閉的息苦しさが、映画を見ながら感じる、気持ち悪さの理由なのである。
 
 文学や芸術とは現実とイコールではない。文学や芸術的事象は、どこかで現実の出来事を超えなければならない。しかし神や魂の信仰を失ったとき、戦後世代の若者たちは、世俗的に存在するものの中の何かを絶対視せざるを得なかったのであろう。『世界の中心・・・』のヒロインはこの世で叶えられなかった恋をとどめたいと絶望的な願いを希求する中で死んでいく。この映画の中で写真館の館主が大きな役割を果たしているが、これは理由があることであり、かつ象徴的に意味ある行為なのである。
 『ノルウェイ・・・』の方は中年女性の性の儀式と云う形で、日本の伝統的共同体の通過儀礼の儀式に殉じた扱いがされている。こうした一見ハイカラな作品が、こうした原始的とも云える古典的な日本回帰を仄めかしていると云う点でも興味深いのではあるが、要は、天皇性否定の象徴天皇制下の日本に於いては、目に見えない不可視のものごとを確信を持っては語りえないため、目に見える対象を、例えば恋として愛として、婚礼として、あるいは家族の愛として、祭壇の最上段に奉らざるを得ないのである。
 『ノルウェイの森』『世界の中心で、愛を叫ぶ』、そして『冷静と情熱のあいだ』が興味深いのは、愛や恋と云うものについての固有な経験を欠いた作者が、愛とか恋とかと云うものが通常どのように理解されているのだろうかと云う設問を自らに課し、そこで得られた第大公約数の如きものを疑うことなく描き上げた、と云う点だろうか。こうした自信と云うか卑下された無内容、無邪気とも幼稚ともとれる発想も極めて新しい戦後の事態であって、これも伝統的な従来の文学愛好家たちが知らないものであった。
 これは『冷静と情熱のあいだ』に限らず、通常は恋愛小説と思われている『ノルウェイの森』や『世界の中心で、愛を叫ぶ』が、愛を描くと云うよりも愛の執着を描いた物語であった、と云う点にも現れていよう。愛の固有な表現が見当たらないのである。歌謡曲の歌詞のように、不特定多数の誰でもない誰かが不特定多数の恋や愛について、それ熱情や情熱と同一視して語るのである。かかる戦後の愛の風景が、愛や恋が婚礼のような世俗的儀式や村落共同体の通過儀礼に容易に収斂する、と云う時代の閉塞感を無意識のうちに表現している点にも現れていよう。
 映画の原作の異同と云うことならば映画『ノルウェイの森』は原作のエッセンスの忠実な再現である。『冷静と・・・』で面白かったのは、ヒロインに香港の女優を持ってきたことで、日本側の男優の学芸会じみた演技と国際派俳優の存在感の違いが面白かった。国境を超えた国際派の女優を用いることで、原作にはないややこしい悲恋の裏付けが与えられているような気がした。二人の優柔不断ぶりは失笑を買いそうなほどだが、それでも肝心な愛の言葉を語ろうとすると、もぐもぐと他の言語が顔をだし瞬間遅れて、時差を持った日本語の白々しい科白が続くと云う展開だったと思う。国際派女優ケリー・チャンややの困惑気味の演技を見ながら、日本語と云う言語は不自由で軽いので、日本語にはもはや大事な言葉を語る言語ではないのだと思い知らされた。この点が気になっていたので原作を読んで確かめてみたところ、私が映画に読みこんだような抒情は原作には見出せなかった。怖ろしいまでに日本語に対する感性を欠いているのである(序でに言うと次に日本語の軽さを思い知らされる事件が3・11であった。)。
 近松や一葉の世界は愛や恋をこのようには描かなかった。80年代以降の恋や愛を描いた映像世界が、不可視の領域に触れることは遂にないのである。
 

 こうしたわけで、戦後の純愛を描いた映画の多くが戦後の政治的社会構造、――不可視のものどもを排除し、結果として、最高価値を世俗的なことどものなかから選ばれなければならないと云う先験的選択性の狭さの中に、例えばキリスト教なら簡単に偶像崇拝と名付けえたものを、永遠に概念化できないばかりが自らの思惟の論理構造を明証的な形では論理化できないと云う、もどかしい感じが残るのである。
 もちろん、これらの作品群の中にあって、『ノルウェイの森』が持つ重大なイデオロギー性、――プロバガンダじみた政治的メッセージ性、についての認識は重要である。60年代とは過渡期としての戦後体制の揺籃とその収束期であったが、それを明瞭に意味論的に可視化しえた作品としてもこの作品の重要性は特記しておかなければならない。つまりこの作品を境にして戦後の青年たちにとって蒼穹の空の彼方になにがあるかと云うと云う問いは、原理上意味を失うのである。つまり、この時期を境に文学とは何か?と問うこと自体の意味が決定的に変容を遂げるのである。

 ――最後に、

 理学の実験では、対照実験と云う方法を使うので『長崎ぶらぶら節』と『歌行燈』についても触れておく。
 『長崎・・・』が映画として気持よく見れるのは、愛の観念をめぐる作者の考え方が、技芸と世俗の世界をきっちり分けて生きている芸人と芸者の世界を描いているからである。禁欲を貫いた二人の男女が歌探しの旅の途中の旅籠屋で一晩だけ同宿する場面がある。女は一夜の契りを願うのだが男はこの世と技芸の矜持を貫く。つまり二人をこの世の愛欲から救うのは技芸なのである。つまり『狭き門』のアリサにとってキリスト教の神が果たしたような役割を、ここでは三味線とぶらぶら節と云う技芸が果たしているのである。
 泉鏡花原作の『歌行燈』においては技芸の果たす役割はより自覚的である。古典物語の中に男女は安易に愛とか恋とかは言わないものである。自身の技芸に対する奢りゆえに能楽の世界から転落した主人公は技芸ゆえに救われる。芸は態と云って上手い下手を超えるものなのだが、それは技芸が、この世とは異なった様式を求める形式であるがゆえに、幾分、愛や恋と云うものと似ているがためである。ヒロインの名もない女芸人が、ひたすら自身の技芸を卑下し、修練の果てに能楽界の大師匠に見出され、その芸に込められた響きを所作とともに感じとった師匠が思い起こす過去の感慨と、町の軒下を流して歩く芸人の落ちぶれた姿、落ちぶれた耳に届いた恋人の仕舞に併せるように響いてくる鼓の音の、これは高雅でこの世を超越した能楽の世界に引き込まれるようにして、かっての破門された弟子は師匠たちが奏でる縁側の庭前に引き出される。そこには仕舞の研鑽を透して知り合った孫弟子の舞姿があり、こうして二人の愛ともども成就する、つまり極まった芸は人を救う、と云う泉鏡花の世界の趣向である。
 ここでは愛はぴったりと技芸と連動し、ちょうど歌舞伎の大捕物のように雨戸の表裏にぴったりと重なって二重化されてこの世に現象する。この世ならぬ異界から技芸を通じて再現すると云うのが能楽の本質なのだが、この映画は実に日本芸能の本質をよく理解して映像化していると云える。またこの映画は、一部の現代日本人作家たちのように、不可視の対象は存在しないとも云わないし、『狭き門』などのフランス文学の伝統のように、人間の愛よりも神の愛の方が大きいと云うことも言わない。それは等量の緊張とと均衡を持って、西洋にもない、この世離れした華麗な幽玄の世界を展開するのである。技芸が愛の経験と重ねて語られること、これは旅芸人の記憶を持つ、日本芸能に固有のことなのである。
 これを芸術の力、と云ってはならない。芸術や美学と云う対象化されたものでは到底なしえないものなのだ。技芸と云う職人技が、自らの身体を通じて実現するこの世と異界との均衡、この世に齎された稀有の瞬間なのである。