アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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★歌劇『薔薇の騎士』 アリアドネ・アーカイブスより

★歌劇『薔薇の騎士』
2013-06-12 23:26:27
テーマ:音楽と歌劇

 

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・ カルロス・クライバーの1994年版でみた。”薔薇の騎士”とは、婚礼に先立って、求婚者の代理がしかるべき青年の貴族を仕立てて、求愛の象徴的儀式として銀の鍵を模った宝飾品を渡すと云う婚礼に至る最初の儀式、手順、もしくはその担う役割の者を云う。清らかで清純な乙女に捧げるの愛の典礼的奉納の儀式であるのだから、これも当代の清らかな身分の高い白馬の騎士のような青年でなければならない。
 19世紀末期のウィーンにおいても、貴族の婚約は年齢の離れたもの同士というのが珍しくはなかったようである。ベル・エポック期においては貴族階級の経済的な困窮が裕福なブルジョワ階級の娘と縁結びをすることが珍しくはなかったようである。このオペラではファニナル家は金銭で爵位を買ったと云うことになっている。
 このオペラでからかわれるのは成金のファニナル家ではなく、旧貴族のオックス男爵である。好色で貪欲でおまけに吝嗇ときている。しかも気位ばかり高くて人間性がない。はげ頭の彼がさんざん茶化された上にソフィー・ファニナルから婚約を解消されるのは、結局人間としての品性ゆえになのである。ブルジョワの成金娘の方が余程貴族的であり、この辺はヘンリー・ジェイムズの小説を連想させたりする。

 このオペラの見どころは三つあって、一つはマリー・テレーズの人物としての造形である。マリー・テレーズ・ヴェルデンブルク、通常は”元帥夫人”と呼ばれている。彼女は若い恋人オクタヴィアンとの束の間の享楽的な生活に青春最後の日々を過ごしている。十歳以上も年下の愛人とのアヴァンチュールには終わりがあることを、彼女の経験から諦念を持って認めている。その日も朝からオックス男爵の不意の訪問を受け”薔薇の騎士”の依頼を受けるなど、そのこと自体が厭ではないのだが、――なぜならそれは彼女のウィーン社交界での地位の高さを意味するものであるのだから――オックスのようなとても粋とは云えない男と朝から顔を合わせると云うのが目覚めとしては不愉快なのである。それに使用人が総がかりで仕上げてくれた朝のメイキングにしても鏡に映しだされた姿は目を背けたくなるような時の年輪を刻んだ象徴が顔全体に潜んでいるかのようで、これも不愉快である。そんなこんなで混乱にまぎれて帰らせてしまったオクタヴィアンに別れれのキスを落ち着いてしてやれなかったことに気づいて、このことがまた憂鬱な気持ちにさせる。
 まあ、ざっとこんな造形で、その気位高い気品あふれる元帥閣下夫人が最後は器量の広いところをみせて若い二人の愛を引導する。恋の終わりと人生の黄昏が何時か来る日とは思っていたけれども、こんなに早いとは思わなかったと云う述懐が、”昨日今日とは思わざりしを・・・”の在原業平と似ているのはご東西文明の愛嬌だろうか。

 見どころの二つ目は、ソフィー・ファニナルを四頭と六頭馬車と云う華麗な装備に仕立てて訪問した薔薇の騎士ことオクタヴィアンが、銀の鍵箱に入れて訪れ、本らの目的を忘れてお互いに一目ぼれに陥る場面である。若い二人の高揚感は、銀の鍵に焚きしめられた薔薇の香水によっていやが上にも高められる。
 しかしホフマンスタールの脚本が流石だと思わせるのは、恋の高揚感を描いた場面に続く二人のユーモラスな会話、――本物の貴族との婚約を夢見ていたソフィーがウィーンの貴族年鑑を諳んじるほどの愛読家だったと云うことによる。事実彼女はオクタヴィアンについても本人以上に良く知っており、アルファベットで五十文字にも及ぶ彼の長い長い貴族の正式名称を眼の前で暗誦して見せオクタヴィアンをびっくりさせるのである。同じスノビズムを描くにしてもプルーストのように辛辣ではない。寄宿舎を出たばかりのブルジョワのP箱入り娘の純粋無垢さを描く視線の暖かさはむしろヘンリー・ジェイムズの文学に似ている。

 三つ目は、元帥夫人が品位と格調をもって、愛を若い世代の二人に譲渡する有名な三重唱の場面である。この場面はリヒャルト・シュトラウスの告別式でも詠われたようであり、生前から有名な場面であったらしい。
 モーツァルトのオペラを聴いても感じるのだが、つくづオペラのくアンサンブルと云う形式でしか表現できないこの世ならぬ境位があると云うことを何時もながらに実感させる。文学は分析性と総合性のゆえに幾らでも巧緻を精緻にも精密にも出来るのだが、外側からかあるいは内面からしか描き得ないのでアンサンブルの美しさには到達できないのだ。文学は高度な精緻な理解と洞察力をもって接近することは出来るのだが決してそのものになりきることはできないのだ。個であることを超えた超人格的な愛に到達することは出来ない。それで何時も分かっているのに、この場面に来ると何時も決まって、何時もその都度ごとの新しい局面、何時もその都合ごとの新しい場面を、つまりオペラ的時間を生き直しているような気持ちになるのである。

 一言で云えばこう云うことである、――古い恋から新しい恋への愛の譲渡を、三人三様の気持ちを込めて歌う場面が圧倒的なのである。オクタヴィアンは二人の恋人、二つの恋と云う事象の間に晒されて、未知の愛なるものの前で震えるような魂の戦きを、情感を籠めて歌う。それは成長に伴う成熟と喪失を詠うことである。
 元帥夫人は恋や愛とい云うものへの尊厳ゆえに断念し、自らの限界を感慨に堪えかねたように、人生と恋の幕切れを哀歓を籠めて歌う。
 ソフィーは無垢な娘の感性が感じるままに、恋を前にするとまるで教会にいるようだと高揚する気持ちを歌い、恋の厳粛さの前に謙りの気持ちをもって額づき、それは哀切であると同時に、恋と云うものが本来持つ、自らを無限に高める尊厳を気品を籠めて歌い籠める。彼女が元帥夫人の目の前で膝を折り、指先に唇をもっていく場面は美しい。額づく愛、謙る愛、新旧二つの愛が人格を超えて交歓の挨拶を互いに交わしあっているかのような、まるで人間であることを超えた、永遠に近づいた場面である。時と永遠、時(ソフィー)と永遠(伯爵夫人)が無限を隔てて対面する。

 ホフマンススタールの脚本が優れているのは、恋は解らないものであると、――年齢も立場も経験も違う三人が、三人三様の思いを込めて、ある種の霊感と宗教的啓示にも似た厳かな敬意に促されながら、愛と云う唯一のものの高みをを詠わせている余情にある。若き燕たち、オクタヴィアンの他にも過去に様々なアヴァンチュールや恋の遍歴の経験がないわけではなかったのに、社会的地位の高さに加えて理解と洞察力がもつ知性の高さを兼ね備えた元帥閣下ヴェルデンブルク侯爵夫人にとっても、結局、恋が持つ比類なき高みは幾つになっても説明できない出来事だった、と云うのである。