アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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制度としての武芸者映画――内田吐夢『宮本武蔵・般若寺坂の決闘』 アリアドネ・アーカイブスより

制度としての武芸者映画――内田吐夢宮本武蔵・般若寺坂の決闘』
2013-06-13 16:13:20
テーマ:映画と演劇

 

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・ 日本の娯楽映画も莫迦にできないものである。武蔵がいて、彼を純粋に思い続けるおつうさんと云う女性がいて、まるで武蔵の生き方に逆らうように生きて苦界に沈む幼馴染の友がいて、そしてめっぽう子供好きである、ときている。昔は時代劇は子供が購入層であったから剣豪映画と西部劇はこうしておかなければならないのである。それで話を本筋に戻せば、取りあえず名を挙げるためには京に吉原道場と云うのがあるから当面これを目標と目指せばよい。
 どうせ武蔵に倒されるのだからここは性格的に悪いとしておいた方がよいだろう。それで気弱な若旦那は少し色好みで頼りなく、配下の思惑が邪悪であると云うことにしてある。本編ではさわりの場面として吉岡道場を訪れた武蔵が一撃で一門を震撼させたと云う事だけで十分だろう。シリーズものだから吉岡一門との対決はお預けとして取っておいて、取りあえずは時間稼ぎのように奈良へ赴く。
 当時奈良には宝蔵院と云う僧だか僧兵だかの槍流の一団が武名を誇っていた。武蔵はただ有名だからと云うだけの理由で道場の扉を叩き、先の吉岡道場と同じような次第になる。強すぎるのである。
 宝蔵院の院主は当日は不在で勝負することは叶わなかったが、隣の日観とか云う坊主が余計なことに武蔵に説教を垂れる。”おまえは強すぎるのだ!”と。力を矯めるということも学ぶべきことであって、強すぎても兵法者としては隙が出来ると云うことを云いたいのだろう。
 当時の奈良は旧都の面影と廃墟の傍らに穀つぶしの浪人たちのたまり場となっていたようである。武蔵はここで能楽師の後家の世話になり離別の日に彼の成長を祈って上質の羽織を送られる。どうしてこうも後家にも処女にももてるのかと問うことは無意味である。ところでその後家が言うのに、――武蔵の武名に遺恨を持つ浪人と宝蔵院の僧兵たちが打ち揃って般若寺で待ちかまえていると云う。後家が思案顔に引きとめるのを振り切って、ここは目にものを見せてくれんと、若い武蔵は例の内田映画で有名になった殺陣を披露する。般若坂の決闘の始まり始まり、である。
 宮本武蔵は強すぎると云うことになっているのだから、赤子の腕をひねるようにバッタバタと浪人たちは打ち倒れていく。彼らが少数になったところで、手を携えて闘うかと思っていた宝蔵院の僧兵どもが俄かに浪人どもの残党に襲いかかって、あえなく無法者たちは全滅と云う仕儀にたち至る。
 武蔵は当てが外れるやら困惑するやら疑心暗鬼に陥るやら。
 ここで再び日観と云う坊主が現れてまた説教を垂れる。奇妙に思う武蔵に日観はことの次第を始めから解き起こし、これは不埒な浪人たちを始末するために町奉行と宝蔵院が仕組んだ三文劇だと云うのである。本当は自分が脚本を書いたのである。武蔵はこの少し前に、自分を誤解していると思われる僧兵たちに対して、”坊主ともあろうものが何たることか、人間とは目で見、耳で聞くだけでなく腹で感じるものだ!”とカッコよく啖呵を切ってみせただけに、自分が利用されていたと云うことは歯軋りしても今はせんないことであった。日観が武蔵を庵室に招じ入れて粥を薦めながら、武芸とは強いだけでは済まない、勝ち方にも色々あるものだと諭した過日の説教のそのままの事態が結局実現したのである。

 疲れた武蔵を思いやって、寺で垢を落とすなり休んで行けと云う日観の申し出を丁重にことわり、彼は言葉にできない怒りに身を震わせる。利用されていたと云うことが腹立たしいのではない。坊主は策略など用いないものだと云いながら浪人たちの屍に回向する僧の偽善に体が震えたのである。
 武蔵は夥しい浪人たちの骸に囲まれてその一人を抱き起こす。一人の死者ごとの表情にかって一人の人生、一人ひとりの人格があった筈である。武蔵が強すぎたのであるとすれば、それを矯めるのが成長であると教え諭す日観の教えは正しいだろう。しかし武蔵が強すぎることが問題であったように、正しすぎるゆえの問題はないであろうか。

 わたしは日観と云う政僧を演じた月形龍之介と云う俳優をみてその存在感に打たれた。闘う相手が悪と云うだけならさほどのことでもなかっただろう。敵は己自身の内にも潜んでいて敵だか味方だかわからないような混沌とした状態のなかで、まるで円陣を組むかのように囲繞されてある、しかも自分があるのは重なり合った円陣の内なのか外なのかが分からない接近戦固有の不分明さ、日観が言うのように敵と観じたものは所詮己の影法師に過ぎないのであるとすれば、これから立ち向かうことになる敵がとてつもない大きさを持った存在であることを感じて、若い武蔵と同様心がうち震えるようであった。