アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの『風景画家』――ヘンリー・ジェイムズ名作短編集 アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズの『風景画家』――ヘンリー・ジェイムズ名作短編集
2013-06-14 16:01:10
テーマ:文学と思想

 

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・ 本短編集に含まれているのは次のとおりである。
・「異常な病人」1868年
・「古い衣装のロマンス」1868年
・「ほんもの」1892年
・「智恵の木」1900年
・「風景画家」1866年
 、である。

 最初の「異常な病人」は自己を語るに晦渋であったジェイムズの自伝的要素を感じることのできる作品である。南北戦争で傷ついた大佐が親切な伯母の家に引き取られて死ぬまでの数年間の物語である。気は病と云うけれども、青年を死に追いやるのは病院よりも、行きたいと云う意欲の喪失である。その喪失の一つは彼が戦争で見たものであろうけれども、そのことについては語られない。戦時中の時間と、日常の時間の間に均衡の橋を架けることが出来なかったと云えばそれまでだが、それについても明示的な形では語られていない。語られるのは彼の失恋体験のみである。
 ざっと粗筋を云うと、大佐が引き取られた先の伯母さんの家に姪がいて彼は密かに愛するようになる。ここに村に新来の青年医師がいて何と彼は親しくはなかったが面識ある戦友の一人であった。医師の判断は、青年に病気の回復を望む気持ちがあるのかどうかが不明であると云う点だった。大佐は治療に専念しながら、もしかして治療が長引くことをもって、居心地のいい伯母の家にいる存在の理由を求めていたのかもしれない。ある日、偶然から姪と馬車で遠出したときも愛の告白をするに至らない。身寄りも資産もなくその上病人である自分に到底その資格があろうとは思えないのである。そんななる日姪と青年医師の婚約が伯母の口から告げられる。気落ちした彼は祝福の言葉すら出てこない。この出来事が青年には致命傷となる。臨終の席で見舞った一堂を前に、姪と二人だけにしてほしいと云う。皆が隣室に引きさがると一分もしないうちに蒼ざめた姪が飛び出して来て云う。「死にそうなの!」
 最後に青年がなにを云ったかは、書かれていない。
 この小説の特徴は、病人と云うベッドに括り付けられた人間の目から見た世俗、普通の世界への羨望であり、そして半ば軽蔑であったことだろう。なぜなら羨望や願望の対象であるにしても健康すぎる人たちの住む世界とは同時に無内容な世界でもあるからだ。どのみち青年は世俗には生きられなかったのである。これは青年ジェイムズのノイローゼの時期の反映でもあったろうか。

 「古い衣装のロマンス」は気味の悪い話である。田舎に二人の姉妹が住んでいて、そこに結婚適齢期の青年がいて、長い逡巡の期間を経て、結局、青年は妹の方と結婚する。その婚約の晩、私服に着替えて脱ぎしてられた花嫁衣装を着て鏡に見入っている姉の姿を、忘れ物を取りに帰った妹が見て異常なものを感じる。
 それから数年がたって妹の方はある病で早世することになる。姉の執念を知っている妹としては自分の持っている衣装を全て屋根裏の鍵付きの衣装箱に仕舞うように遺言する。ところが母親を失った衝撃から娘を里親に帰していた男寡の家に、生き残った姉の方が娘に付き添って帰って来る。娘が異常に娘になつくようになっておりいまでは彼女の介助なしにはあり得なくなったと里では言うのである。
 こうした形で不自然な三人の生活が始まるのだが、ある日屋根裏の衣装箱の鍵を奪い取った姉は屋上に駆け上がり、衣装箱の前で膝まづくように亡くなっている姿が後日発見される。彼女に額と頬には燃えた幻の手で付けられた十本の傷痕!があった。

 「ほんもの」――これはジェイムズの芸術論である。本物は本物以上であり得るだろうか、と云う問いのようにも思えるし、本物は本物であることの類型性ゆえに本質を裏切ることになるのではないのか、とも読める。
 ジェイムズが偉大であるのは、本物は本物を写すことによって可能であるのではなく、虚構によってこそ可能なものとなる、と云う信念が既にこの頃には萌していたと云う意味でも興味深い。
 お話と云うのはこうである。肖像画の他に本の挿絵を描いて生計を立てている画家がいて、ある日裕福そうな初老の夫妻が訪ねてくる。これは肖像画の依頼だなと勘違いして聞くうちに、実は、しがないその日暮らしの日当を求めて挿絵モデルの口を求めに来た来客であることが分かる。話を聞くうちに、彼らが零落した元有産階級に属していたことが分かる。
 画家の技量はモデルの良しあしで決まるわけではなく、画家の技術で決まるものだ。当たり前のことだが、それで画家は同情して二人を使うのだが、何時しか自分の主要なモデルとしては使えないことを知るようになる。それは何故だろうか。本物とは変更の利かない典型のようなもので、典型は血の通わない類型に転落しかねないからである。それよりも本物とは何のかかわりもない他の労働階級出身のモデルたちの方に、彼らが時折見せる玉響の変幻自在さの中に、画家の構想力を超えた本質と云うものが顕現し、それがそれを写し取る画家自身の中にインスピレーションを呼び起こす、と云う訳だ。
 ある日、分からせようとしても分かって貰えない夫婦を前に多額の金を握らせる。この日を境にもはや二人は来なくなった。しかし、と画家は思うのである。なるほど芸術の理論としてはそうかもしれないが、あの二人の老夫婦がしがないその日暮らしの日当を求めて訪れた、決して長くはなかったあの日の思い出を疎かには思わない、と。
 わたしはこうしたことが云えるから、ジェイムズを偉大だと思うのである。
 
 「智恵の木」は、偉大な彫刻家と思い込んでいる夫と、それを知らないふりをしている知人の「わたし」の物語である。語り手はまるで骨董品じみた彼のサロンを訪れるたびごとに、決して口にしてはならない秘密を持っていると思うのである。そのことは口が裂けても言えない、大袈裟な表現をすれば墓の中まで持っていくような秘密だと云うのである。どうして語り手が友人の一人にかくまでの忠誠を捧げなければならなかったと云う理由もふるっていて、語り手は夫人に生涯変わらぬロマンスを捧げていたと云うのである。
 ここに夫妻にランスロットと云う名前の一人息子がいて、ケンブリッジは卒業したものの学業は振るわず、語り手の云い分では「画家になるしかない」と云うことになるのだが、これが夫妻の間では父親には及ばないにしても一流の画家になれるかもしれない、と云うものであった。それでランスがパリに留学を希望したときに語り手は執拗に反対するのだが、その理由と云うのが、小説の最後に明かされるところによれば、なまじ審美的な見識を身につけると父親の嘘が露見するかもしれないと云うのである。
 数年後、パリでの武者修行に疲れたランスを待っていたのは激しく彼を詰る父親の叱責であった。他人であるならば凌ぎやすいものも、これでは限界であるとランスは語り手のところに泣きついてくる。この世の打ち明け話で明らかになったのは、息子の窮状を見かねた母親が実は自分も遠の昔から理解していた、と云うものであった。
 ここからがこのお話の教訓のだが、解説者の仁木勝治は「彼らが知っていたことにすら、自分が気づかなかったことを知って、ピーター(語り手)は何ともやりきれない人生の悲哀を感じるのである。」と書いている。
 正しい読み方とは思うのだが、ここでは語り手は「人生の悲哀」を感じながらも、生涯をかけた人に云えない一方的な慕情と観じていたものが、実は夫人に寄っても共有されていたと云うこと知って、救われている、と理解すべきではなかろうか。
 人生を皮肉に、斜めに読み解くだけのジェイムズではないのである。

 「風景画家」は、莫大な資産を保有しているにもかかわらず婚約が事実上破棄されたものとみなされた失意の青年が、人生を捨て、否かに引きこもり、35歳で亡くなるまでのアマチュア画家として生きたある夏の日の、数日間ぽ物語である。
 かれは大西洋に面した田舎町で「船長」と綽名される老人に出会い、ひよんなことから彼の家に招待された客人となる。彼の家には結婚適齢期を過ぎた地味な服装を好む娘がいて、町で音楽の教師のような仕事をして生計を立てている。彼は貧しい貧乏人の画家だという触れ込みで彼らの家に住み込むのである。
 彼は遠く都会を離れ、大西洋に面した村の夕映えの中に描かれざる未来の名画の中に自分が住んでいるかのように錯覚する。彼が住む環境が「名画」の一枚であるとするならば、「船長」と歳たけた地味目の服装を好む一人娘はさながら印象派風の登場人物のようではないか。
 こうして幾つかの紆余曲折はあったものの、二人は結婚することになる。式を控えたある日の晩、彼は自分の素姓を明らかにしようと思って件の日記を読むように娘に云うのだが、娘は既に彼が病床にあるとき読んでいたと云うのである。かれがお金持ちであることを隠していたと云うことも知っていた、と云うのである。
 それにしてもこの娘の云うことが凄い!
”わたし、あなたを愛してるなんて言ってませんわ。その点ではあなたを欺いてなんかいません。あなたの妻になるとは言いましたけれど。わたしは忠実な妻です。あなたが思っているほど情と云うものを持ってはいませんが、それでも情以外のものはもっとたくさん持っていますわ。わたしはこれ以上誤魔化しつづけることはできません――まあ!気づきませんでしたわ、ご存じなかったのですの?わたしが見て知っていると云うことを?知恵比べだったのね。あなたはわたしを欺いたし、わたしもあなたを煙にまいていましたわ。あなたが秘密を打ち明けて下すったから、わたしも自分の秘密を打ち明けることにしますわ。”
 この後二人がどうなったか書かれていませんが、この五年後に主人公は人知れずこの世から去っていたのです。