アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

児童文学に見るニューイングランド気質――『若草物語』と『大草原の小さな家』シリーズ アリアドネ・アーカイブスより

児童文学に見るニューイングランド気質――『若草物語』と『大草原の小さな家』シリーズ
2013-06-16 00:30:42
テーマ:絵本と児童文学

・ 一部の専門家の言説を除いては『若草物語』と『大草原シリーズ』には問われざる求心部、語られざる原点のようなものがあります。それは物語的世界の背後に静かに控えていて作品に荘重な安定感を齎している不可視の宗教的な背景についてです。アメリカのキリスト教の伝播の歴史については余りにも複雑で批評しようと云う気も能力もないことを自覚しているので避けたいのですが、先日からずっと続けている、ヘンリー・ジェイムズの文学の中で度々言表される”ニューイングランド気質”と云うのが気になって仕方がないので、わがくしごときでも何事か云わずンば、と思うのです。いくら彼の小説を読んでもそれについて明示的に解説が書かれていると云う気にはなりませんから不思議です。
 今回は、標記の児童文学の魅力と謎に迫ってみたいのです。

 そこで、ちなみにまるで違うのですが、ジェイムズ家の歴史をおさらいすると、何でも祖父の時代に産をなし、そこで得られた蓄積を元に職業選択の自由からは解放されると云う夢のような文化的な環境が出来上がったようです。父親のジェイムズ氏はスウェーデンボルグに深い傾倒を捧げた神学者であったようで、彼は独自の教育方針の基に早い時期から子供たちをヨーロッパで過ごさせたと聞きます。事実、これは一種の英才教育で兄ウィリアムとともに史上まれに見る天才を家系の中から生み出したといいます。兄ウィリアムは『宗教的経験の諸相』などで有名な哲学者ですし、弟のヘンリーは言うまでもない文学界の巨人です。こうした結果から勘案してみると英才教育は稀に見る奇跡を成し遂げてたかのように思えるのですが、さて、父親とはどう云う人であったかと云えば、生前から当地では有名な神学者であったようです。つまりジェイムズ家に見られるニューイングランド気質とは、フランクリンなどの考えとは共通するものを持ちながら、全く異なった世俗離れとでも云えるような先祖への回帰現象が見られると思うのです。もちろんジェイムズ家の面々は隠遁生活のようなものを志向することはありませんでしたが、パリ時代のヘンリーの言動などからすると、その無神論的な傾向にも関わらず、西ヨーロッパのニヒリズムデカダンスには極めて批判的であったようです。それは『鳩の翼』などのどの作品を読んでも一貫して言えることです。

 こうしたジェイムズの場合は当然語られなければならない宗教的な背景が『若草物語』や『大草原シリーズ』では衆目から慎重に伏せられていると云うことは児童文学に分類されたと云うこともあるでしょうけれども、新時代のアメリカの家庭像を世界に知らしめる伝道師の役割としては相応しくないとも考えられたのかもしれません。
 少し強引な纏め方をすればジェイムズ家の三代に渡る歴史は、単に富を得た有閑階級がアメリカにはない文化を求めたと云う理由の他に、メイフラワー号以降の祖先が目指した理想とは余りにも異なる将来のアメリカの陰に脅かされた、と考えることも可能でしょう。少なくとも若き日のヘンリーにとってはそうでした。その意味でヘンリーは父親と最もその思いを共有していたのかもしれません。後にヘンリーは旧大陸の実情を知るにつれて次第に批判的になり、アメリカの良さについても見直すようになるのですが、一般に若き日のヘンリーの失望は、アメリカの文化の無伝統性や皮相さにあるのではなく、民族的な記憶として祖先の建国の理想を裏切るような未来像をまざまざと予感していた、と云うことは言えないでしょうか。

 さて、ヘンリー・ジェイムズについてはともかくとして、『若草物語』は原題が”四人姉妹”であるように母を中心とした女の物語であると一般には考えられています。しかしこの物語にはちょうど遠近法における消失点のように見えない求心点があります。それが病院に入院しているとされる父親なのです。父親は早く云えば脳なしのごくつぶしなのですが、母親は慎重に子供たちの前ではそれを悟られないように振舞います。この振る舞いが優雅に見えるとすれば、それは元来この物語が他者の目を意識した演劇的な所作の物語であったと云うことが理解できるはずです。
 他者の目にどのように映ずるかと云うことを意識するとは、彼らの場合唯一の絶対者の目で、それにいかに相応しく生きて見せるかということになるわけです。ここから彼らの利他主義が生まれるのです。通常の普遍化された意味での博愛主義とは違って、極めて地域に限定されつつ、家庭の必要に応じて要請された、振舞の美学と云うように言っておいた方が良いでしょう。
 
 そして『若草物語』で描かれたような博愛主義、利他主義がそのままジェイムズの『ヨーロッパ人』と云う小説にも出てくるのです。
 さて、先に『若草物語』の処世不如意の父親は本当はごくつぶしではないのかと書きましたが、先ほどのジェイムズ家三代の歴史を知ってみますと、彼の反世俗の姿勢はジェイムズ家などよりもより以上の、本来の祖国ではないアメリカの未来像に対するプロテストであったと考えるのは、恣意的な空想の類に過ぎないと云うことになるのでしょうか。もし、幾つかの保留条件を付けてでもこの仮説を認めていただけるなら、『若草物語』と云う物語は父親殺しの物語であったと云うことにはならないでしょうか。
 言うまでもなく『若草物語』の基調は、父親なしでもやっていけると云うことではありません。”不幸にして”お国の戦争で負傷した父親が不在であるので、じきに帰って来るだろうと云う父親像を神棚に奉ることで、あたかもそこに父親が居るかのようなホームドラマを演じて見せる、と云うことにあった筈です。

 次にワイルダーの『大草原シリーズ』ですが、全10冊にも及ぶ極めて長いものです。ここで取り上げたいと思うのは前半の五冊で、ここでは西部への夢にかられた父親の理想に引きずられるように苦難の中を放浪する家族の姿が描かれます。テレビドラマは村にしっかり根をおろしていますがあれは嘘です。少なくとも後期の姿です。初期はそうではありませんでした。幼い三人の娘を引き連れて夫婦で幌馬車を駆って、場合によればインディアンの居留するような地域にすら住み着くのです。父親の理想はともかくとして、家族にかける負担は大きなもので長女はこの旅程で失明します。災害や飢饉、ありとあらゆる苦難が一家を襲います。ここまで来ると単に父親の理想とだけで説明することは困難なのです。
 結論を云うと、伝道師の家族だったのです。それを知ることで色んな分からない点が氷解して行くのです。困難な道が前途に与え与えられたとき、より困難な道を選ぶことが神の意にかなう、と云う考え方、自然災害や環境的な困難の前に一致団結すると云う家庭像は、戦後復興期の世界中で求められているものでした。ジェイムズで云うニューイングランド気質、つまり自分の事よりも他者の事情を優先的に考える事なしにはあらゆる行動を起こせない人々の理想こそ、後に普遍化され、世界化された家族の理想像、ホームドラマの起源なのでした。

 何れにしてもアメリカと云う国が20世紀になって、大なり小なり覇権を唱えるようになって、豊かな富や強力な武力とともに精神的な意味でも頂点に君臨し世界を納得させるために必要なのはハリウッド流の正義の神話やフォード流の豊かさの原理でありました。そしてそれ以上に、建前としての平和の伝道者として必要なのは自由恋愛と機会均等、そして家族の理念でした。
 しかし、かかるアメリカ的な理念の宗教的な背景については、注意深く隠されなければならなかったのです。敢えて書き忘れたふりをしていたのですが、オルコットの家系の宗教的な重たい背景については言わずもがなのことでしょう。