アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの『アスパンの恋文』 アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズの『アスパンの恋文』
2013-06-17 16:59:42
テーマ:文学と思想

 

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・ ベネツィアを舞台とした観光案内としても使えそうな小説である。特にゴンドラを漕ぐ櫂の音が大運河から水路に入るとひときわ高くなるなどと云う記述は臨場感があって、わたしは自覚的に聞いたと云う経験がないので、行く機会があれば是非確か見てみたい、などと云う気にさせる。もし映画化するとすれば、剽軽で狡猾で二枚目半のところはヒュー・グラントに演じさせてみたい気がする。可憐なハイミスのミス・ティータは、映画『鳩の翼』のエリザベス・マクダウェルに演じさせてみたい。「アスカパンの恋人」たるミス・ボルドローは誰でも云い様な気がするが、その不気味さだけであれば、皺だらけの昨今のジャンヌ・モローはどうだろうか。
 いらざる脱線をしてしまった。

 物語はアスパンと云う過去には高名であったあるアメリカ人の詩人がいて、j彼の詩作に謳われた永遠の恋人ミス・ボルドローが世を偲ぶようにして、ベネツィアの一隅に生きているようだと云う文学仲間の情報から始まる。その伝説中の人物のような夫人が生前詩人と交した恋文が残されていると云う。伝記作者件文芸評論家のはしりとしては、是非ものにして知名を高めたいし、それは文学的研究史に於いてもマイナスとはならないはずだ、そこで文筆家は行動を起こすことになる。
 なお、作中”アスパン”と云う架空の詩人は、解説によるとバイロンがモデルであると云う。

 こうして語り手は何食わぬ顔をして、未亡人とその姪が住むと云う水路沿いの古びた三階建ての館に法外な下宿料を払って移り住む。彼は知人に、その方策として姪を誘惑すれば良いと冗談に云うのだが、いかんせんマスコミに対するガードは固く、婦人は容易に近づくことを許さない。こうして半年以上も過ぎて、捗々しい成果もなく試行錯誤の果てに、結局はそうなってしまうのだが・・・。
 少しは端折りすぎたのでもう少しつけ加えると、語り手の前に現れた詩人の恋人は、あろうことか高齢ゆえにであるのか、終始目庇を掛けレースの前垂れを通して物を云う不気味な存在であり、金にしか執着しない人物に変貌している。語り手を下宿人として受け入れたのも法外な下宿料のためであった。しかしその姪と謂われる未婚の女性は、伯母の介護に生涯を費やしそのことを後悔するでもなく想うような純朴な田舎の婦人である。最初の三カ月の前払い期間が過ぎて、下宿人を引きとめるために語り手と姪の外出を唆す。それは語り手にとっても願ってもない好機であって、ヴェネツィア遊覧の途上折を観て自分の目論見を話して協力を依頼する。そしてさらに都合がよいことには老婆は、ある語り手が原因となった出来事のために亡くなってしまうのだが。その出来事と云うのは、老婆が体調を崩し医者の往診を頻繁に受けざるを得ない状況の中で、気晴らしに夜のサンマルコ広場を散策した帰りに、消灯後の館が寝静まったのをいいことに、あろうことか老嬢の病室に忍び込み、机の中から件の資料を発見すると云うものだが。しかし罠なのかどうなのか、彼の行動を一切を暗闇の中に立って見ている二つの影があった、と云う次第なのである。
 「出版ごろめ!」と云う罵声を浴びて。

 泥棒に等しい行動を見とがめられて、穴にも入りたい心境になった語り手は数日間ベネツィアを離れる。そして卑怯にも職務を放棄しかかっている自身の怯懦を責めるように舞い戻るのだが、その時は既に葬儀も済んで時間が経過していたと云うのである。それでも亡くなった故人のことよりも、幻の原稿の安否が気になると云うのは悲しき習性ゆえか。
 語り手は例え人殺し!と云われても仕方ないとあきらめてミス・ティータに面会を申し込む。ミス・ティータは悲しみを乗り越えたのか意外と表情も明るく語り手の面会を許してくれる。故人の死を悼む四方山話からどしても話題は最後は「あそこ」に行きつかざるを得ない。幻の文献は老嬢が焼却を命じたにも関わらずミス・ティータの機転で彼女の手元に保存されていると云う。そして以外にも交換と引き渡しの条件と云うのが、じれったいほどに間接的になされる彼女のプロポーズなのであった。

 語り手は物事の意外な展開に、一度として自分が愛を交すような素振りを見せただろうか、露骨に秘密の恋文と交換に紛らわしい誤解されるような行動を下だろうか、と自問する。しかし否定しても明快な解答など得られようはないのである。現実に一人の純朴な婦人をそのような気持ちに追いやったと云うことは、やはり誤解の種が幾分かはあることは否定できないのである。
 語り手は直ぐにでもヴェネツィアを逃げ出したいと思いながらもミス。ティータの今後が心配でなお数日留まるのだが、語り手から明解な意思表示がないことから承諾と否認を読みとった婦人は、別れの朝気高い寛大な姿で語り手の前に現れる。
 そこのところの魅力は原文を引き出してみるほかはない。

”・・・挫折感が彼女の中にある変化をもたらしていたのだが、わたしは策略や分捕品のことで頭がいっぱいだったので、それに気が付かなかったのだ。今、突然それが分かり、口では言い表せぬほど驚いた。彼女はおだやかな表情で部屋の真ん中に立っていた。寛大な表情を浮かべていたので、天使のように美しく見えた。もはや滑稽な中年の婦人ではない。目の錯覚で彼女は若々しくさえ見えた。その幻覚に茫然としていると、意識の低いところから呟く声が聞こえてきた――「いいじゃないか、これならいいじゃないか」わたしは犠牲を払ってもいいよな気がしてきた。しかしその呟きよりもはっきりと、ミス・ティータの声が聞こえてきた。彼女のあまりの変貌に心を奪われていたので、はじめのうちは何を言っているのかわからなかった。良く聞いてみると別れを告げているのだった。今後もおしあわせに、と言っていた。”(P183-184)

 こう云う場面をジェイムズの文学の見本のように思う。平凡さの中にある、ある偉大さの感情と云えばいいのだろうか。
 さて、小出しにするようだがジェイムズの文学のファンにはまだ興味深い続きがあって、壮年期のジェイムズに友人以上の女友達フェニモア・ウィルソンと云う作家がいたと云う。日本では未明の女流作家も本国では文学史の一角を占め、生前はフィレンツェにも別荘を持つ身分で、ジェイムズとは親しい関係にあったと云う。それは専門家による往復書簡などの検討結果によれば抜き差しならぬものを含んでいた由である。彼女はジェイムズとの曖昧な関係を経た数年後自殺を遂げたと云う。ちなみに彼女はジェイムズよりも数年年上であったと云う。

 めったなことでジェイムズの文学をヨーロッパとアメリカの「総合と融合」などと聴いたふうなことは言わない方が良いのである。
 晩年の『金の盃』などを読めば、ジェイムズの文学に固有な聖なるものを求める顕現が、見分けがつかないまでに悪に囲繞され、闇と分け難く入り混じっている様が描かれているではないのか。真実を犠牲にしても――それがあるとしてだが――「外見」としての卑俗な人間関係が辛うじて保持しているこの世の微妙な均衡と秩序を守りぬこうとする英米文学圏の大家の意思は明らかではないか。