アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの『ロンドン生活』他・(上) アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズの『ロンドン生活』他・(上)
2013-06-19 18:26:26
テーマ:歴史と文学

 

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・ 『ロンドン生活』は、1888年発表の作品である。
 ロンドンの社交界に暮らすアメリカ人の姉妹、実家はとうの昔に破産、死別したとされている、それで妹は唯一残っているロンドンに暮らす裕福な社交生活を送っている姉夫婦を頼って、不本意ながらも、同居生活に耐えている、というのが物語の大きな背景にある。
 語り手の口ぶりによれば、この姉妹ほど正反対なものはない。姉は美貌と手に入れたロンドン社交界の富と社会的地位を誇って、夫に隠れたアヴァンチュールを楽しんでいるらしい。ある意味で社会的地位のないアメリカ女性がロンドンの社交界で華麗な立場を維持している、と云うのは華麗な出世物語の一例でもある。しかしこれもどうやら限度に来て、アヴァンチュールがらみの話題は所詮は伝統的なロンドン社交界では背徳的な挿話以上の意味を持ちえず、家庭も崩壊寸前である。せめてアンナ・カレーニナのように倫理観の持ち主でもあれば違うのだろうけれども、趣味も教養もなくて美貌だけが取り柄の無内容な女とされている。こんな状態だから、自分に有利な証拠が出来次第、離婚訴訟に持ち込みたいと夫は考えている。夫は私立探偵まで使って妻の言動を監視し情報収集するほど二人の夫婦生活は冷え切っている。
 イギリスの上流社会に移り住んだ、全てが対照的であるとされるアメリカ人の姉妹、姉のセレナをこれだけ悪様にかく意味は、要するに妹のローラが如何に品行方正で、申し分ない性格であるかと云う点を強調するために他ならない。例によってジェイムズがこうした単純化した書き方をする場合は、最後まで読めば分かるように、一筋縄ではいかない物語であると云うことの予告である。

 妹のローラは、姉セレナの不行跡を知りながらも、公然と裁判沙汰になる事だけは避けたいと考えている。物語の最後まで持っていく生き方、彼女の意志の強さはかかる彼女の決意だけである。彼女の性格は、自分のせいでもない姉の個人的な言動を自分の責任のように感じて日々懊悩すると云う生活、過剰演技に現れている。彼女の親切な年配の友人ダヴェナント婦人は常日頃より心を痛めて、謂れのない一族の罪と背徳を一人で背負いきるような過剰な乙女の倫理観を危険なものであると感じ、種々の助言をするのだが、彼女の目論見はローラの頑ななな性格に禍されて、最後まで成功しない。その中でも最大の失敗は、何よりもこうした立場にある婦人を救うのは結婚をさせる事にあると、勝手に相談もせずに推し進めた縁談も、彼女の意固地さのために成果を生むのはまだ先のようである。物語の最後の段階では、夫の元から家出したらしい姉を追ってベルギーにまで追いかけ、結局それも捗々しい成果を生むことなく万策尽きてアメリカに帰った彼女に、親切なダヴェナント夫人と、事件に巻き込まれたこれもまた親切なアメリカ青年ウェンドーバー氏は、当面の生活資金を送るところで、何か中途半端な形を思わせてこの小説は終わっている。姉が駆け落ちするように婚家を出てしまっては、ロンドンに残る選択肢も名分を失うことになり、例え夫のライオネル氏が子供たちの養育を理由に留保を掛けたにしても彼女の自尊心が許さないのである。あるいは姉の出奔前から特殊な執心を抱いているらしいライオネル氏の限度を見知っている読者にすれば、何れにせよ不愉快な愛憎劇が始まりかねないことは見え透いた筋書きのようでもある。

 自由奔放な姉と、姉の他には家族を失って自分が親代わりのように心配する妹と
云うヘンリー・ジェイムズの、極端でややドラマティックな設定から、例のジェイムズの文学に固有な語り口、親切でこの上なく聡明な、若い割には苦労も人生経験も着てきた若い娘が苦労すると云う定型的なお話には、またかと云うジェイムズ固有のシチュエーションがありながら、自分を救ってくれるかもしれない周囲の配慮を悉く破棄して生きるローラ生き方は、一途とも云えるし哀れとも云えるし、反面病気とも云える、ジェイムズの文学らいい複雑な読後感を与える小説である。

 例えばジェイムズの文学の固有の特色として、ヨーロッパ社会の腐敗とアメリカ社会の純粋さと云った対比が文学研究の手段や読書法としてなされていることはよく知られている。それで本書の多田敏男氏の「解説」にあるように、ヒロインの姉セリナを評して、「セリナはアメリカ人でなくとも、どこにでもみられる堕落した女の見本であって・・・」などと書くと、それが間違いであると云う意味ではないのだが、余りの単純さに、多田氏の抱いている恋愛観を疑いたくなる。それではヒロインのローラ・ウィングは品行方正で、ジェイムズの云うように非の打ちどころがないと云うことになるのだろうか。

 しかし良く考えてみれば、ふしだら女と言われるにもかかわらず、セリナが女性として何をしてと云うのだろうか。結婚して見て子供を二人も設けたのに、その失望感から一緒に生活するのが嫌になったと云うだけのことではないのか。イギリスの上流階級のことなので子供たちの教育を家庭教師と保育士に任せているからと言って、特別に教育を放棄していると指弾されるのは不正確な記述であるし、余りに可哀そうではないのか。それにアヴァンチュールにしても、パリの社交界のようにそれがまるで貴婦人の儀礼の一つでもあるかのように伝統化され、慣習化され、褒めそやされているわけでもなく、それで自分自身を時代の象徴として正当化しているのでもない。セレナの、影に隠れてこそこそするのがいけないと云うのであれば それは弱みに付け込んだ「世間の口」を借りた型どおりの道徳的な指弾にすぎないし、一人の女性を非難するものとしての居丈高さはどうなのだろうか。
 それに世間の味方に安易に妥協し、唯一の肉親であるにもかかわらず、姉の不行跡を一家や一門の恥と心得、それをあたかも自分の落ち度でもあるかのように終始言動と無言の沈黙を通して表現することは、姉を心理的
かつ間接的に追い詰めることになる、と云うことにはならないのだろうか。

 この小説で一番割を食ったのはアメリカの善良な青年ウェンドーバー氏であろう。もともと彼はロンドン社交界と云うのが珍しくて単なる物見遊山的な興味から、ある意味で新しく全てが自由であるように見えながら、その実ヨーロッパの旧社会以上に因循姑息なアメリカ社会にはない自由な生き方をしているアメリカ娘の姉妹に憧れて、彼らの家に出入りするようになったのである。それを周囲が、と云うかお節介なダヴェナント夫人が勘違いして、色々と心理的な各策を弄して縁談話を成就させようとする。ウェンドーバーはロンドンの社交界に生きる姉妹”たち”を愛したのであって、特定の個人を愛したわけではない。どちらかと云えば美貌の誉れ高い姉のセリナの方に憧れていたと云うべきか。それを長年月に渡って劣等感を潜在的に秘匿してきたローラは、ダヴェナント夫人に懇願されてローラに求婚した青年の善意を切り捨てることで自らの自尊心を満足させようとする。
 つまり何処の兄弟姉妹にもありがちなのだが、美貌や知能や能力の面で余りにも違うと生涯に渡って各々の生き方を制限してしまうこともある。自伝などを読むとジェイムズの場合は兄のウィリアムと何かと比較されるので大変だったと云う気がする。長男のウィリアムは全ての点でヘンリーに秀でていた。兄弟の場合でもこうであるのに、姉妹の場合は、特にそれが美貌や肉体的な特徴ともなれば、結婚が唯一の生き方の女の選択肢と考えられた社会に於いては陰湿な恨みやつらみ、妬みなどの感情が意識下の世界に蓄積されていたと言っても的外れではないだろう。しかも通常の市民社会の中では家族とは社会を成り立たせる最高概念であり、まして合衆国の東海岸ニューイングランド地方はプロテスタント的な家族の原型を形作った本場でもあれば、家族相互が助け合い仲良くするのは当然視されていて、これに反することは、たとえそれが自然な感情の吐露であっても、何か社会の規範に反する行為であるかのように受けとられたのである。ローラが生きる社会とは、そう云う社会なのであった。

 この小説を「感受性が豊かなるが故に余計に人間的な試練を受ける」ローラ・ウィングを描いた受難の物語と読むことも確かに可能である。しかしジェイムズが提出している一方的なメッセージを信じてしまうと云うのも豊かな読書のあり方ではない。ジェイムズには閉ざされた大型客船の旅と云う閉ざされた世界の中における”世間”と云う名のものを言う沈黙が、貧しい婚期遅れの薄命の娘を如何にして追い詰めて行って死に追いやったかを叙述する『パタゴニア号』のような作品もあるのだから、一筋縄では済まないことを理解すべきであろう。

 この作品で最高の人物形象に達しているのはダベナント婦人である。
 知も情も理解し、高い洞察力とともに人間的な善意を失わないこの老夫人の唯一の欠点は、冷淡なようでいてローラのような不運な娘を見ると黙って見ていられない、と云う点である。この物語でも最後に分かるように彼女の善意は踏んだり蹴ったりの仕儀となる。彼女は怒りのあまり、引き取ろうとした積りで部屋に積んであった彼女のトランクや荷物の一切を悉く送り返してしまう。こうした老嬢の恒として怒りは凄まじかったと思えるのだが、時が経つと、どうやらアメリカに居るらしい年少の昔の友人の窮状を慮って50ポンドばかりの生活基金を送るのである。子供を持たない夫人に取るてはどこかで保税概念の代償を求めざるを得ないのである。

 彼女の偉大さと愚かさの極みは、ローラの窮状を救うために仲を取り持つこと、単に旧大陸の文化にあこがれロンドン観光に来たにすぎない善良なアメリカ青年ウェンバードを説得する場面である。それでも微妙な二人のロンドン生活の経緯から愛を告白したかと夫人は訪ねる。愛を告白したと云う青年の素直な証言を聴いて、彼女は信じられないと云う表情をしてみせて、本来そんな場合は男は身を投げ出さなければならない、中世の騎士のように膝まづいて愛を懇願したかと聴くのである。こうした場場面を読むと滑稽さを通り越してやはりジェイムズの文学は、人間の偉大さというものに触れるのである。
 青年は、当面は老嬢の押しの強さに辟易しながらも、やはり責任を感じてローラの前に「謙りの愛」を実践して見せる。それでも姉の不行跡で盲目となったローラが受け入れないとなると、遠い祖国に帰っていったと云うアメリカまでも彼女を追って行く。今は無理かもしれないけれどもこう云う微妙な問題は時間を掛けねばならないと老嬢に諭されながら、彼もまた基金の応募に応じるのである。
 多分kの後の経緯を考える場合は、二人の関係者の善意にもかかわらず、ローラ・ウィングと云う、表面的には素直で品行方正な娘が内に秘めた矜持、プライドの城壁の堅い防御を壊すことは相当に難しいのではないかと、わたしなどは思うのだが。