アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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内田吐夢の『宮本武蔵・二刀流開眼』アリアドネ・アーカイブスより

内田吐夢の『宮本武蔵・二刀流開眼』
2013-06-20 16:20:27
テーマ:映画と演劇

 


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・  本作は、前作『般若寺坂の決闘』から柳生の里を経て再び京に帰り吉岡清十郎との果し合いまでを描いている。前作の般若寺坂の決闘のクライマックスに至る一直線の緊張感に比べればやや散漫な感じはあるが、やはり同一の基調は保たれている。
 本篇では若き武蔵の強引さばかりが目立つ。柳生家への手合わせについても結局は芙蓉の花の茎の切り口を見せられただけで体よく交されてしまう。念願の吉岡清十郎との一騎打ちにしても、何故戦わなければならないのか不自然さが目立つ。色好みであるとか女性に優しくないとかは理由になるだろうか。むしろ名門二代目の、武蔵からの果し合い状を受けてからの迷いの方がより説得的に描かれている。人間的には吉岡の方が遥かに上なのである。
 石舟斎にしても、やはり俳優としての風格と云うのか、月形竜之介が持つ計り知れない悪意と云うものとは比較できない。花を愛でて剣術で花を生けると云う発想は優れた隠喩であるけれども、武蔵が直面しなければならなかった底知れない悪の世界とは無縁である。やはり御正道の武道は美しすぎるのである。とは言え、美しさについての感受性を欠いているわけではない武蔵は、世を避けて清貧に生きる石舟斎の武術への敬意を忘れることはない。彼の元に、一時お通さんが仮寓していると云うのも、映画だから如何様にも造れると云う意味での作為ではなく、至純なる美を解するものとしての象徴的な表現として理解するべきである。戦乱の世を、悪党、強盗跋扈する世の中を女一人の下弱い身で一人生きているにも関わらず、不純なものが一切関わり合ってこないと云うのも仁徳なのである。この種の女性は見ることのできる人間にしか見えないのであるから悪さをしようとしても出来ないのである。

 この映画の特徴は、例の武蔵最大のライヴァル、佐々木小次郎の登場がある。興味深いのは、彼が師匠の教えを忠実に守るような弟子ではなく、周辺のものどもを常にライバル視し乗り越えるための対象としてしか見なさない彼の生き方に言及されている点である。彼が学んだ冨田流とは小太刀の流れと云う。にも拘らず彼は後に物干し竿と呼ばれた三尺の長刀使いの名手となる。俗に言う燕返しの事であるが、要するに恩師、師匠と云えども所詮は名を挙げるための手段としてしか考えていない人間であったのである。
 しかし武蔵の生き方もまたこの映画を見る限りでは五十歩百歩であるとするならば、何が違うのだろうか。それはお通さんのような特別な女性の存在が小次郎には見えてこないと云う点である。これは色好みとかとは無関係なことであって、聖なるものが小次郎には見えないのである。同じことが他の武芸者、吉岡清十郎たちにも見えない筈である。

 しかし武者修行中の武蔵には名を挙げる事ばかりに急で、当面お通さんからは逃げ回ってばかりいる。つまり武蔵には潜在能力としては聖なるものを感受することが出来るけれども、自覚的な意識としては武芸者の妨げにしかならないと思っているのである。それで本篇の武蔵は、聖なるものとは逆の方向、つまり佐々木小次郎のような生き方と見分け難く混じり合って、場合によってはそれ以上の品性を欠いた生き方しかできないかの如くである。
 最終的に武蔵は木刀で清十郎を一撃で倒す。本人はこれで室町以来の名門を倒したのだからと、一応の出世街道の一里塚に満足するのだが、最初から勝負にならない相手をまともに相手としたと云う虚しさは付きまとう。
 手加減されて聴き腕の方を一撃された清十郎は、小次郎の意地の悪い逆しらな企みによって片腕を切断された上で、板戸による担架を使えずに、京童の衆目に晒されて京の町まですごすごと歩かされることとなる。かかる事態こそ武蔵がよく許容し得るものではなかった。しかしかかる事態を仕組んだかのようなところに無知な武蔵は追い遣られてしまうのである。武蔵は、冷酷であると云う、最も敵に廻してはいけない大衆と云う相手と武蔵は今後対峙していかなければならないのである。

 何のための剣かと、般若寺の坂で若き武蔵は無念の思いで問うたはずである。石舟斎を柳生に訪うたときも強いだけの剣は時代遅れであるとの啓示を受けた筈である。名門の無力な二代目を追いまわして勝負を挑む、易々と勝つ、それが武道だろうか。それでは小次郎以下の武芸者と少しも違わないではないか。場合によっては武蔵の徹底性は同類の士の中に於いても卓越していたのではないか。本編を観る限り、武蔵は精神的に向上するよりは、見分け難く自らの内部にも存在する悪とまじりあい、何が正義で何が悪なのか分からない闇のように立ち籠めた不分明の、混沌とした時代を生きた人間像として描いてあるようだ。

 乱世から大坂冬の陣、夏の陣を経て太平の世に至ると云う正義の名分を欠いた汚辱にまみれた世の中にあって、折節に若き武蔵とすれ違うお通さんお人間造形が素晴らしい。愛が清純と云うには余りにも透徹していて、恋や愛と云う現象に伴う情熱や熱情を殆ど欠いた、祭壇に供えられた燈明のような震える観照としての愛、それはこの世に生きる人間たちの愚かさを瞼の裏に留めて諦観するかのように静かに降りそそぐ至上の愛なのである。