アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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山田洋次の家族映画(上)アリアドネ・アーカイブスより

山田洋次の家族映画(上)
2013-06-22 13:52:36
テーマ:映画と演劇

・ ここに取り上げるのは以下の6作品である。選別についてはわたくしの恣意性と偶然をご容赦願いたい。

・『家族』1970年
・『男はつらいよ・寅次郎忘れな草』1973年
・『幸福の黄色いハンカチ』1977年
・『遥かなる山の呼び声』1980年
・『たそがれ清兵衛』2002年
・『隠し剣・鬼の爪』2004年
・『武士の一分』2006年

・ 1970年の『家族』は山田の代表作の一つになっているが、内容をみると異色の作品である。第一に山田独特の軽るみとユーモアが無い。視点がドラマの背景をなす背後の社会の背後に延びている。山田の中では自然主義的なリアリズムが貫かれたものであると言ってよい。話は、長崎県伊王島にあったとされる炭鉱の閉山に伴って家族が南から北まで漂流する旅である。途中、福山と大阪その他による。大阪では万国博覧会を見学し日本資本主義の復興の現状について確認する。東京では旅の強硬なスケジュールの所為か赤ん坊を亡くしてしまう。悲嘆の内に旅立ちようやく北海道のさる開拓村に安住の地を見出す。安堵するのも束の間、祖父はようやく落ち着きを見せそうな家族の笑顔に見守られて開拓村最初の死者となる。
 これには後日談があって、二十五年後のNHK≪新日本紀行≫は、夢破れて全村民が離村となり閉鎖された、考慮とした北海道開拓村の風景を寡黙に描き出す。つまり社会批評家としての山田の目論見は甘かったのである。『幸福の黄色いハンカチ』の夕張、『遥かなる山の呼び声』の道東や網走、さらには2004年の『隠し剣・鬼に爪』のラストにおいてすら、当時蝦夷と呼ばれた極寒の異境の地を蜃気楼のような恣意的な対象として選んでいると云うことは、美的な感傷や映像詩としての詠嘆の他は、山田の認識がそれ以上は深められることはなかったことを語っている。

 山田のシリアスドラマと呼ばれるジャンルには家族への郷愁がある。戦後の家族映画なりホームドラマを鑑賞する場合気を付けなければならないのは、家族をないがしろにした戦前への反省から、家族を論じると云うことは意識するにせよそうでないにせよ、森繁や向田の幾百幾千のホームドラマは言うまでもなく、背後に隠された反戦のメッセージを無視しないことである。戦後25年目に制作された先記『家族』においては、戦争に代わるものとして戦後社会に肥大しはじめた戦後体制、狭く云えば弱者切り捨てを本質とする戦後日本の組織や企業の論理をあの段階で山田がどの程度自覚的に捉えていたかいなかったかを語っている。かかる意味では『家族』は山田の認識の甘さにもかかわらず、敗れ去った戦後反戦運動の、狭く云えば市民運動の挫折の叙事詩なのである。芸術作品としての評価は別としても、あの段階で他にこのような映像を残す人間は希少な存在であったと云う意味でも、この作品については今後も長く言及され語り続けられるべきである。

 山田の映画が隠された反戦映画であると云う意味は、戦後の国民映画の栄誉をも獲得したかに見える寅さんシリーズにもその偉大なる反響を見出すことが出来る。『男はつらいよ・寅次郎忘れな草』では、「たこ八」が社長をしている印刷工場の職工たちの姿を典型として描いた場面がある。戦後、金の卵と呼ばれた少年少女たちの姿を留めた現役の映画の最後の映像ではなかろうか。少年と少女たちの間に芽生えたロマンス、それを垣間見て感激して語る浅岡るり子演じるリリー、寅次郎にはこの哀切さが分からない、その背後では遠く近く若いカップルを励ますための少年たちの、「労働者諸君」「異議なし」の連呼が聴こえてくると云う場面である。寅さんはプロレタリアート――正確にはルンペンプロレタリアート、略称ルンプロ――であると設定されているのであるが、自分たちの階級を何とか中流階級であると思いこもうとしている。労働者の概念はもはや彼の頭の中では北海道の極寒の地で労働する神話性の中にしか存在しないのである。この場面は寅次郎が自分の階級を取り違えると云う可笑しさもあるが、より重要なことは『家族』で描かれることになる到来した戦後社会の「後」に来た社会と云うものが、実は貧富と云う経済的な範疇の分類に過ぎなかったものを、そこに善悪を重ねて語るような言説の社会として、不可視の見えざる権力を本質とする恐るべき社会が到来したことを語っている。だから寅次郎の北海道開拓村への幻想は三日ともたないのである。観客は寅さんの意志の弱さ身体の軟弱さを笑い飛ばすだけではく、勤勉は善であると云う価値観で断罪し、この映画を見るものは社会制度の一部分として加担して自らがあることを強いられるのである。

 ここで少し脱線が許されるならば、少年少女たちの無垢さに感激するリリーの哀切さが寅さんには分からないと書いた。リリーの幻想の中に生まれてくる普通の中流階級の家庭像が持つ哀切さも寅さんには分からないだろう。何故分からないかと云えば、認識とは知りたいものとの距離感の上に成立するものだが、寅さんは哀切さそのもの、郷愁そのものを生きているから理解する必要が無いのだ。理解で気ないと云う意味は、認識できていないと云う意味ではなく、生きているからなのである。
 リリーさんい云わせれば、そんなタイプの男はこの世では稀有の存在で、恐らく凡人のような真理の陰影もなく常に公明正大であるがために、挫折と云うことのない存在なのであろう。そんな寅さんがリリーには豊饒そのものの存在、まるで愛の富豪のようなゴージャスな存在に見えたのである。

 『男はつらいよ・寅次郎忘れな草』の成功は、浅丘るり子の美しさにある。どうしてこんな場所のこんな処に、と思わせる異化作用が、山田の映画には珍しいこの世を超えたものを瞬間映し出している。寅さんの実家の仮寝の宿でシーツの強張りを糊の香りとして捉える郷愁は、実は彼女と日本人が失った感受性である。彼女はその柴又での仮の一夜、寅さんと襖を隔てて本当の愛をしてみたいと語る。寅さんを相手に語ると云うことは寅さんが対象ではないと云うことである。物語の終わりでは彼女は普通の小料理屋の女将として納まっている。戦後の夢と反戦の意思は山田の映画では全てが失われたのである。

 1977年制作の『幸福の黄色いハンカチ』と『遥かなる山の呼び声』では家族は幻想と云う形で必死の抵抗を見せる。これらの中期の良く知られた作品では幸福とは実に言葉だけの、口約束のうえにだけ存在する儚い対象であるにすぎない。『黄色い・・・』では刑期を終えた犯罪者は言葉と実在の奇跡的な一致を目撃する、奇跡を幻想のように、幻想を奇跡のように見る。要するに映画の世界の出来事でしかないと云うことである。
 『遥かなる・・・』では、言葉は現実の言語として、刑期を納めるために網走に向かう車中の、手錠が隠された刑事たちの眼前で、はな肇と倍賞千恵子によるプロの俳優によって演じられる学芸会となる。つまり黄色いハンカチを物干し竿に吊るすと云う行為も、車中で未来の約束を額縁の中に嵌めこまれたように演じると云う素人の田舎芝居的興行の行為も、山田の抱く家族像が脆くも崩壊し去ったあとは、言語の演技性によって、つまり芸術性によって確保されなければならないと云う、縮退した冬の時代の反戦運動の可能性を語っている。
 言語が如何にして外の空気に触れるかと云う問題、言語の公開性の問題は後期の時代ものと云う分野でもう一度取り上げてみたい。
 

 ここまでの山田の映画を見て来て云えることは、山田の映画にはどの映画にも同一の基調が感じられる、同一の人間の息吹と云うものを間近に感じられる、と云う点だろう。中期以降の作品をみれば駄作が無い、安心して見ていられると云うのもあるだろう。しかし観終わったあとで感じるのは上手すぎる映画、出来すぎた映画、メリハリが利きすぎた巧者の演出になる映画であると云う印象がのこるのも否めない。映画が与える不自然さの印象は、彼が批評家としては『家族』で決定的に敗れ去ったものであること、敗残者の美学を詠う映像詩人に過ぎなかったことを言外に語っている。『幸福の黄色いハンカチ』や『遥かなる山の呼び声』についても、言語が持つ演劇性の役割についてどの程度山田が自覚的であったかは甚だ疑問である。その為には、無言の男・高倉健こそ最後は語らなければならなかった筈である。無言の男の人間像が持つ欺瞞性については、『たそがれ清兵衛』以降の時代ものの諸作が明らかにするであろう。

 2002年の『たそがれ清兵衛』が描いているのはマイホーム主義者がお家騒動に巻き込まれる話である。これ以降の山田が新境地を目論んだ時代映画は何れもが、受け身としての武士の生きざまを描いたものが多い。受け身であるとは消極的であると云う意味ではなく、社会や組織の論理に加担しまいと云う強い無言の政治的メッセージである。しかし言語表現とは本来指名され名指されて公開されてのみ本来の力を持つ。秘匿された言語観や無言の行為などと云うものを男の美学として僭称するのは可能だが、社会や組織と呼ばれる関係性の中におかれた場合は、任意に、最悪の場合は事志と正反対にも動き得ると云うイロニーを語っている。序でに云えば『幸福の黄色いハンカチ』や『遥かなる山の呼び声』などが与える不自然さ、造り過ぎの感は山田の抱く言語観の安易さの中にある。高倉健演ずる一連の任侠ものが必要以上に高くは評価できないのには理由がある。

 さて、それはともかく、清兵衛は本意に逆らって、「上意」の刺客に選ばれてしまうのである。あるいは彼の事なかれ主義がこうした不運を呼び寄せたとも云えるだろうか。ここで彼は忘れてしまっていた家族への思いを、つまり反戦の意思を思い出す。この物語は昼行燈のようだと蔑まれていた父親が実は剣豪の達人だったと云う物語ではない。言語や芸術表現と云うのものが、外に向けられた外気、公開性と云うものを失ったときどのように不可解な恣意性に人は翻弄されなければならなかったか、と云う風に読むべきである。その結果父親は不可視の影に立ち向かうのだが、倒したのは自分の分身に過ぎなかった。辛うじて保った家庭の安穏も数年後の御一新をめぐる騒動の中で、鉄砲と云う新兵器の犠牲となって父親はあっけなく死んでいく。つまり結果として言うならば『たそがれ・・・』は時代の変遷を捉えた優れた映画なのであって、山田個人の認識の甘さとか理想の低さとか言うイデオロギーとは無関係なのである。戦後の反戦思想がじりじりと後退する中で、極限として個人化された父親の中で、幻のように見えざる敵、反戦への思いが甦るお話である。父親は、時代のはぐれ者として、家族と決して反戦の意思を共有することはないのである。