アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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反戦思想と言語批判 アリアドネ・アーカイブスより

反戦思想と言語批判
2013-06-26 10:17:02
テーマ:文学と思想

 


 小津、溝口や山田洋次のような、いっけん反戦思想とは何の関係もないような映画人を取り上げながら、なにゆえ反戦思想の云々があるのだろうか、と怪訝に思われる方がいらっしゃるのかもしれない。
 一つには、日本の戦後と云う大きな枠組みの中では、当初から、家族を語ることは同時に反戦の意思を語ることと同義であったと云う経緯がある。だから今回取り上げた映画で云えば木下恵介の『二十四の瞳』以外は、制作者側の言外の意思や無意識を探る旅、と云う側面を持つことになった。
 それでは何故、直截的に反戦運動を素材として描いた作品を取り上げなかったのか。一つには、そのような類の研究はもっと適当で適切な人が居るし、それに既に既成文化の一分として、過去現在を問わず文献的にも語り継がれている現状があるからである。
 いまひとつの理由は反戦意思の確認を社会背景の中に不可視の言説として読み解こうとする場合、表面に現れたメッセージ性の強い作品の場合はかえって適切でない場合もあり得る、と云う点である。芸術作品の価値を、潜在、顕在の両面において論ずる場合に於いては、前者は固有の作家論(文学研究)として、後者は芸術作品を通して背後の時代思潮を問う場合(文芸社会学)に有効なのである。とりわけエンターテイメント系の作品を扱う場合は潜在性や言外の集合的無意識を用いることが主にならざるを得ない。

 ところで何ゆえ反戦か、と云う疑問は当然あるだろう。反戦とは平和への願いである。不戦への継続する意思の確認であると同時に、芸術の世界に於いては、それが言語に関わる問題であるがゆえに、芸術性言語にとって根幹にかかわる問題なのである。これは芸術家や映画監督自身が右翼か左翼かとい云うこととは一切関わらない問題である。
 芸術至上主義の誤りは現実との関係を除外しても芸術の自体的価値のみで自立しえると考える点にある。これを言語の方から見ると、言葉が単なる個人の恣意的な観念性を超えるのは、言葉が現実との適切な緊張関係にある場合だけである。観念的な世界に自足するような言語はとうてい成熟した言語とは言い難い。しょせん言葉だ、と日本人の多くは考えるきらいがあるけれども、それは国民的経験としては言葉が普遍的な使用をなされた歴史的経験を持たなかった、と云うことを語っているにすぎない。日本語が書き言葉として、話し言葉として、あるいは階層ごとの異なった言語を多様に発達させたことは知られている。言語が単なるシグナルや符号のような機能性でのみ評価できるものではなく、言語表現が社会の構造をそのまま映し出す文化の表現であることに留意するべきだろう。言葉に対する感性とは第一に外部社会の表現であり、第二に実存としての個人の精神的な構造である。自国の歴史を何事にせよ絶対視するありかたが、およそ言語に対する感性を欠いた形で、未だに寡黙な男の美学などと云う神話を語り続ける現状がある。

 言語には、本来、口に出され発話され、それが他者のよって開示(公開)された言説として共有されることによって獲得される、言語固有の本質と云うものがある。その場合は驚くべきことに、言語自身が語る、と云う事態が稀に出現する。
 優れた芸術作品の場合はそうで、そこでは作者が語るのではなく、作品自身が自らを語っている、と思える現場に立ち会うことがある。批評とは、畢竟、到来するものに対して耳を傾ける受容的能動の能力である。批評とは、恣に、あれこれの個人的な見解を述べることではない。

 ほんらい言語に、――芸術性言語に対して敏感であるべき筈の芸術家や批評家が、言葉に対する感性について自覚的でない、と云う事態をどのように考えたらよいのだろうか。これを感受性のルーズさのせいにするわけにはいかない。
 反戦思想とは、それを言語のレベルから考えると、言語が個人の恣意的な観念性を去って現実との緊張関係から切り結ぶ、高次のあり方のひとつなのである。それは郷愁に根差した国民の言葉を恢復する、と云う意味なのである。君が代問題と云うのがあるが、それは日本の国歌が詰まらないと云う意味ではなく、君が代に語られた言語が普遍的な使用の経緯を語っていない、と云う意味なのである。3・11以降の日本の社会が明らかにしたのもまた言葉の軽き社会であった。言葉に魂を籠めると云う云い方で自らの民族性のアイデンティティを擁護するようにみせながら、言葉の軽き国民性の姿がそこにあった。

  なにゆえかくも言葉の軽き民族性が出現したのだろうか。一つには流布された言霊観、――本音と建前の言語観にある。民族性に深く根差した、本当のこと、”ほんたう”のことは言葉では表現できない、あるいは言語的意味秩序の世界とは別に”ほんたう”のことを、人生の真実を区別して考える日本人に固有の言語観である。
 かかる途方もないルーズな言語観から帰結されるものが、一方における現世社会の野放図な空疎な社会観の是認であり、他方における人生における”ほんたう”の、極限化であり意味抽象化である。”ほんたう”が極限値を値として撮ると云う意味は、それが事実上この世に存在しないと云う意味である。この世に存在しないことをあたかもあるかのように扱うことが社会を運営する手続きとしては合法的であり機能的でもあり得る、と考える奇妙に醒めた社会の姿がそこにはある。
 これもまた日本人の好きな言葉、――義理人情が、この世とあの世の意味の違いを明察しきったがゆえに結果としての不合理を引き受け選択をすると云う意味と、不合理ゆえにわれ信ず、味噌も糞も一緒に、と云うのではまるで違う。同様に本音と建前の意味も本来は日本人の自己弁護じみた言説とは違った意味を持っていた筈である。

 言葉による発現を蔑視する社会、寡黙であることを美化する社会は、そのことで自らの利権を拡大しようとしている人間たちがいるはずである。文化的な規制力とは、一方では法・国家権力として顕示的な形で規制し、他方では文化として内面から潜在的な力として国民を規制する。目に見えない不可視の悪は外部対象性として与えられるだけでなく、国民の一人ひとりが抱いている言葉の中にも見分け難く入りこんでいる。戦後の社会党自民党を皮肉な形で補完したように、反体制的な言説はそれ自体現下の社会構造に矛盾なく組みこまれていることが多い。むしろ山田洋次山田太一のような映像ドラマの中にこそ、無名の国民経験としての反戦思想の消長の有無を、たとえ頼りない在り方であはあれ確認することが出来るのである。
 

 日本の国民は、歴史的経験としては言語の普遍的体験を知らなかったけれども、言語論として考える場合は、未来に回帰する郷愁として既に経験している、とも云えるのである。