ジッドの『背徳者』アリアドネ・アーカイブすより
ジッドの『背徳者』
2013-07-05 12:50:25
テーマ:文学と思想
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ジッドの『背徳者』は、自らの信念ゆえに、これ以上云うこともない良妻を死なせてしまう物語である。キリスト教とロザリオが重要な役割を果たしていて、瀕死の妻は力なく幾度もロザリオを取り落とす。幾度となく床に落ちるロザリオを取り上げて妻の手に握らせるのだが、まるで無神論者である「ぼく」の意思を代行しでもするかのように、あるいは「ぼく」の素行を執拗に罰しでもするかのように、その度毎にロザリオは乾いた音を立てながら床を転げまわる!哀切な幕切れである。
語り手である「ぼく」は、意固地で、妙な風に潔癖で、そんな妻の異国の地での哀れな死に心を動かせることもなく、”人は、手持ちの札だけで勝負をすべきである”――万事に於いて「神」と云う万能カードを使うのはアンフェアな行為である!――と云う実存主義風の信念ゆえに、残りの生涯を荒廃の中に過ごそうとする。死に逝くものに対する、たったひとことの祈りの言葉もなく、死に逝くものへの聖別する儀礼をも忘れ、荒廃の死後の世界の中に追いやってしまうのである。これをリゴリスムと云おうとエゴイズムと云おうと悲惨であることに変わりはない。
しかし旅の書としての本書を特徴づけるのは、敬虔で、信仰心熱い妻を伴って「ぼく」が旅する旅は華麗な古代幻想への旅である。古代カルタゴとローマの遺跡を残すチュニジアの諸都市の遍歴に始まり、スイスやイタリアの諸都市を経て、パリやノルマンディーでの仮初の定住生活を夢想するも、再びチュニジアの山岳と砂漠の中に一切を失う忘却と喪失の物語である。
語り手の「ぼく」が紀元6世紀頃のラヴェンナに花開いた東ゴート王国の女帝アマラスンタについての歴史書を描く意図を持ち続けた点はどのように解釈すべきであるか。
古代文化の残照とも云うべき東ゴート王国と女帝アマラスンタの事跡を語ることは、ヨーロッパが未だキリスト教の影に覆われないヨーロッパ民族の記憶を語ることでもある。語り手の反キリスト教的な志向は反転して、方やノルマンディーの片田舎の原始的とも云える国家宗教以前の未開性へと、その血と野蛮な土俗性に目を開かせる。あたかもキリスト教伝来以前の因習と習慣が残ってでもいるかのように。
そして、何よりもチュニジアの砂漠や山岳都市で出会うイスラム的なもの、更にはイスラムを超えて自然性とも云える無垢なるものへの賛歌、それを謳うことが、あるいは謳い損ねることが、皮肉なことにこの小説のテーマである。
『背徳者』は、『狭き門』とセットにして読まれるべき本であるそうだ。ちょうどキリスト教三連祭壇画にみるように、聖なる画像を中心に両署は左右に配置されるべきである、と云う意味だろうか。
『狭き門』は、キリスト教の狭められた観念や概念が如何にして人の豊かさを奪い続けるものであるか、と云う物語である。『背徳者』はキリスト教の欺瞞性を告発しつつも、建前としては一転してそれが現実にとり得る形態としては、無慈悲で無残な結末にしかなりえないことを描いた作品である。
しかし、主祭壇とも云うべき、中央に描かれるべきジッドの文学の本質とは何か?ジッドへの関心は続く。