アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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モーリアックの『テレーズ・デスケルゥ―』アリアドネ・アーカイブスより

モーリアックの『テレーズ・デスケルゥ―』
2013-07-07 01:38:59
テーマ:文学と思想

 

・ 『テレーズ・デスケルゥ―』は夫を毒殺しようとして失敗する女の話である。これだけ云うと、世の中にこんなに怖い女もいるものかと云う気がするかもしれないが、本を読んでみると、少なくとも極悪だと云う気はしない。まず殺意が無い。夫が薬瓶をグラスに注ぎかけたまま雑誌に気をとられていたせいで過剰に添加された飲み薬を誤って飲んだのを何故か注意することが出来ずに傍観してしまう。その後夫は目立って体調を崩すのだが、病気と飲み薬の濃度の関連を知りたくて何時しか再現行為を繰り返しているうちに、それがぼんやりとした殺意として意識されてくる。しかし何に対する殺意なのか?それをテレーズは最後まで知ることはない。

 もともとその頃のフランスの地方における地主階級における結婚とは、土地と土地との、資産と資産との結びつきに過ぎなかった。彼女がベルナールと結婚を決意したとき、それはまず二人の資産の合計として現れた。かかる結婚の動機が不純であるか否かを問う以前に、この時代に於いては自由恋愛などと云う観念はパリなどの大都市の一部の階級を除いてなかったのである。テレーズの悲劇は田舎にしては読書好きの彼女が文学を通して自由恋愛の概念を抽象的に、あるいは文献的に知っていたと云うにすぎない。だからテレーズがその抱いた殺意に於いて、夫を愛しているとかいないとかは最初から問題にならなかった。当初抱いた結婚の幻想の夢破れて云々・・・と云った近代小説の仕立てではないのである。つまりテレーズ・デスケルーと云う方程式は、F(x)のXに、愛や恋と云う概念やコードを代入しても解けないようになっている。
 畢竟、この点が、人間とはアトム化された人的な個性であり、社会的属性は一応除外して考える傾向の強い戦後の日本人の理解には適さないのである。

 またテレーズが流布された毒婦であるとしても、彼女の殺意の無さ、無明瞭さ、夫殺しの動機や理由の理解に苦しむのである。
 結局、何ゆえ彼女が夫に殺意を抱いたかを説明する個所を本文探すとすれば、さしづめ以下の部分になるだろう。

”いつでもいかなる情況にあっても、家のためになにをなすがいいのかを、彼(ベルナール)は知っている。不安で胸をいっぱいにして、おまえ(テレーズ)は長い自己弁護の言葉を用意している。”(本分7節より)
 
”「ベルナール、あたなのような人は自分の行為の理由を全部、いつでも知っているんでしょうね?」”(本分13節より)

 つまり自分の行動に一度として疑問を持つことのないような在り方が、テレーズには我慢できない、日常が持つ上辺の恒常性、それが彼女には我慢できない。テレーズは幾度となく田舎の生活の、車幅の轍のように決められた幅の人生に迷うことなく生きる姑息因循さであると云う例えを用いるけれども、それを如何に堪え難いと思ってはいてもこれだけでは夫を殺す理由にはなりえないだろう。
 彼女が殺意によって自らの環境世界を離脱するためには、少なくとも二つの事件が必要であった。
 一つは、誘惑者ジャン・アゼヴェドとの出会いである。理念家型のこの青年は、ベルナールや彼が属する田舎社会に無いものを全て持っていただけでなく、果敢に自己超克と云う形で環境からの離脱を唆すのである。しかし無知な少女アンヌ・デスケルゥ―に満足できなかったように、特に美しいわけでもなく多少田舎で手に入る範囲の文献を読んだだけのテレーズに満足するとも思えない。テレーズは夫と彼が属する田舎の伝統的な社会との和解に失敗したのちパリに出て、まずはジャンを頼ろうとするのだが煩がれるのが落ちだろう。作者はいっけん彼を好意的に描いているように見えるかもしれないが、彼の紋切り型で酷薄な形而上学的な理解の仕方を見る限り、人間としては信用できないことが分かるのである。実際にも、気を持たせながらあっさりとアンヌを捨ててしまう気前の良さを見ても、彼がどう云う人物なのか分かる筈だ。テレーズはジャンが薦める本を読んでも理解できない。テレーズは現実世界を理念的に超克すると云う道も閉ざされているのである。
 二つ目は、そのアンヌがジャン・アゼヴェドに書いたラブレターを読んだことである。ここにはまぎれもなく、テレーズが文献として、抽象的で概念的な知識としてしか知らなかった愛の姿がまごうことなく描き出されていたのである。テレーズは嫉妬のあまりこの恋文を最後まで読むことが出来なかったのである。それゆえアンヌとジャンとの関係に不快感を隠さなかった夫と一族の意向を受けて、事もあろうに進んでテレーズが協力したのには愛への復讐と云う意味があったはずだ。
 テレーズは愛すると云うことを知らない。資産家の父は、たぶん乳母に預けて人を意愛すると云う意味を教えはしなかった。テレーズは愛の世界からも疎外されている。

 再び、テレーズはなにゆえ夫を殺害しようとしたのか?未遂の事件をめぐった裁判沙汰とテレーズの一応の帰省が一定の成果を納めた段階で二人は別居と云う道を選択する。テレーズをパリの送りとどけて別れる間際に、やっと夫は重い口を開いて一番大事なことの疑問を、事件の核心について聴く。「おまえはなぜ、あんなことをしたんだ?今なら僕にそれが言えるはずだが」
 モーリアックはこの時の会見の雰囲気を、「テレーズは・・・・・好意のある、まるで母親のような視線を投げかける。」と書いている。ベルナールとテレーズの間に交わされた唯一とも云える人間的な会話になる筈であったのだが。
 だが口にされた言葉は依然としてベルナールには不可解な言葉だった。

”「私はあなたにこうお答えしようとしていました『なぜそうしたのか自分でも分からないのです』と。でも今、なぜだかわかるように思いますわ。ねえ、そうなのよ!もしかしたら、あなたの目の中に不安の影を、好奇心の色を見たいためだったかもしれませんわ――つまり心の動揺を。ついさっきから私がはじめてあなたの目の中に見ているものがそれなのよ」(本分13節より)

この後に、先に引用した次の句が続く。

”「ベルナール、あなたのような人は自分の行動の理由を全部、いつでも知っているのでしょうね?」(同上)

”「私はある人物の役割を演ずることはしたくなかったの。身ぶりをし、きまった文句を口にする、つまり、一人のテレーズと云う女をたえず押し殺して生きることは・・・・・。」”(同上)

 しかし懸命なテレーズの最終陳述にも関わらず、ベルナールの

 ”「もう一人のテレーズって何だ!」”

 これが対話の打ち切りの合図となる。 
 再び、二人の間のは深淵が、遠く隔てる海峡の寒流が人間的努力の一切を押し流してしまう!

 以上みてきた夫婦の噛み合わない会話は、男女の心理主義的な理解を超えている、と云うことがある。ベルナール個人が問題なのではない。彼のような人間と夫婦の関係を結ぶことで身近に感じられるようになる、堪えず本来的なあり方からは区別されたもう一つの自分と云う役割を演じなければならないと云う、二人のテレーズの間には生きていける空間が無い、と云う感覚が問題なのである。彼女を囲繞する環境世界が二人のテレーズと云う役割存在を強いるので、二人のテレーズの二重性が齎す隙間で窒息するほかはない、と彼女は感じるのである。

 かかる極限状況から脱するためには様々な方法があるだろう。ベルナールに代表される世俗への帰還が拒否されたのであれば、――
 ジャン・アゼヴェドのような学問世界や理念的世界の方向に飛ぶことはできないだろう。
 アンヌ・デスケルーのように、愛に殉じると云うこともないだろう。なぜなら彼女は愛を知らないのであるから。
 そこで選び出されたのが背徳性の理念であった。それが単に犯罪であれば世俗の法体系と国家組織の中に消極的であるにせよ安定した地位を見出し得たであろう。あれやこれやの犯罪や犯行、悪事ではなく、人間そのものに対する癒し難い怨恨と敵意、これをしも背徳と云う概念で括るとすれば、それは聖性とみまごうような形で形あるものの世界を遥かに超え出ることが出来るのである。

 聖性と背徳、聖痕と犯罪、人間存在を両極から囲繞する根本概念が見分け難く混沌と入り混じった、夜明け前の暗がりを思わせる旧約的な夜の沈黙の世界の中で、テレーズが囚われたのは、存在の病であるのか、聖痕のさらなる干からびた痕跡であるのか私には分からない。モーリアックの文学を実存の文学と読むべきかカソリックの文学と読むべきかその理由を知らない。

 カソリック作家モーリアックはキリスト教の教義と云う枠組みを利用することで、最も救済に価しない人物を極限まで推し進めて造形することが出来た。かかる意味でこの小説の結末に何か解決の手掛かりを読みこもうとする読み方は全て誤りなのである。なぜならモーリアックの意図は、かくも恩寵から離れてある極限的な人間の在り方を提示することに於いて、そこから却って宗教と呼ばれる一般概念が存在することの意義を問おうとしたものであったからである。もしかして救わるべきは皮肉なことにテレーズではなくヨーロッパのキリスト教であるのかもしれない。たしかに昔のフィレンツェの大詩人が言ったように、”この門を潜るものあらゆる希望を捨て”なければならない。
 モーリアックの強みは、だからと言ってここから絶望感を引き出すのではなく、テレーズの生涯に拘らずに長い射程の果てに恩寵を仮定することも可能なことだろう。救済は訪れない、それでよいのである。モーリアックのカソリック作家としての意図は少なくとも、回心の物語と殉教者の秘蹟を決して描かないことにあったのであるから。