アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジッドの『女の学校・ロベール』とモーリアックの『テレーズデスケルー』アリアドネ・アーカイブスより

ジッドの『女の学校・ロベール』とモーリアックの『テレーズデスケルー』
2013-07-07 14:07:53
テーマ:文学と思想

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 ジッドの『狭き門』の偉大さは、キリスト教における狭義の理解、――それがイロニーを籠めて語られる「狭き門」の意味であると思うのですが、教義の純正な解釈、純粋過ぎる解釈、あるいはそう思われたものが、三人の若い善良な男女の従妹たちを悲劇に追い込んでいく物語です。何故小説として偉大であるのかと云えば、読み終えてみてもなるほどジッドの告発の意味はこれ以上ないほどに明瞭に腑に落ちるとしても、だからと云ってアリサやジェロームやジュリエットの生き方に対する批判めいた気持ちなどは起きようがなく、かりに彼らがもう一度生き直してまた同じ過ちを犯したにしても、やはり読者は彼らの生き方を是認してしまうのではないかと思わせる点です。それは何故かと云えば、アリサやジェロームの生き方が作者のメッセージが伝えている意味を超えて、現実にしっかりと対応する何かを持っているからなのです。
 
 ジッドの合わせ鏡のような『女の学校』と『ロベール』は、ある夫婦の生活の不毛さを夫と妻の立場から、あるいは宗教界に生きるものとそうでなない自由な価値観に生きるものとしての夫々の立場から、複眼的に描いたものです。
 小説として必ずしも成功しているとは云えませんが、男女の若いころのお互いが会いする一面化や理想化が実際の自分自身とは異なった人間像を形成してしまい、そこから詰まらぬ些細な諍いを起点に悲喜劇が生じるのです。「ロベール」は妻のエヴィリーヌがアリサのような暗示にかかりやすい性格だったことを語っています。

 ただ、今回この小説を興味深く読んだのは『狭き門』以来のテーマの継承性であるよりも、自由主義者エヴァリーヌが重篤な病に伏せった時に示した夫の「奇妙な行動」でしたね。なぜ奇妙な行動にカッコを付けたかと云えば、キリスト教徒にとっては当然であるとも考えられるからです。キリスト教の世界では死者がまだ意識があるうちに聖油と聖餐の儀式によって聖体拝受を受けさせることを優先させると云う行動を無意識のうちにとってしまうようですね。つまり死者を送るとは所詮は生者の側の事情であるとまでは言わないけれども残酷な風習であることは間違いない。
 キリスト教――正確にはキリスト教社会――に内在する残酷さは、実を言うと『狭き門』にも内在していたものだった。『背徳者』はかかるキリスト教的死生観の範疇を拒否したがためにもう一つの悲劇に突き落とされる物語である。

 さて次に取り上げるのは、罪の女『テレーズ・デスケルー』についてですが、罪の女の犯罪の動機は日本人の感性からは分かり難いのです。なぜ分かり難いのかと云えば、西洋人の精神構造に於いては日本人の死生観にあるようなこの世が全てと云う考え方は無いのです。この世を超えたもの、――この世の仕組みを超えたものと云う風に理解すればよいと思うのですが、超越的に言いますとそこは形而上界とか聖性の領域と云うものになると思うのですが、この領域に於いては当然のことに価値判断が成立しない領域ですので、聖性と犯罪が見分け難く混在している領域なのです。つまり驚くべきことに善悪が屹然とは別れ難い世界なのです。
 
 それでテレーズは最後の夜、意を決して口を開きかけた夫の自分を殺そうとした理由を問われて、こう答えるのです。――

”「自分の手がためらったときだけしか、自分を残酷だとは思わなかったわ、・・・・・最後まで行かなければならない、しかも急いで!私は怖ろしい義務に身をゆだねていたのです。そう、それはちょうど義務のようなものでしたわ」”(本分13節より)

 おそらく「義務」と云う言葉を、このように使う用例は幸いに日本語にはありません。
 
 ここで注目したいのは、「義務」と云う言葉の概念がテレーズの内面に訪れる心理的かつ構造的な機構ですね。端的に言うと、しばしば宗教画に於いて題材にされた受胎告知のあの場面に大変似ているのです。処女マリアが震えるような感性のおののきの中で、ひたすら天使ガブリエルの告知を待ちうけるあのお馴染みの場面です。
 つまり『テレーズ・デスケルー』と云う小説の怖ろしさと云うことを言いたいのであれば、それは妻が夫を毒殺しようとしたと云う事件を言うのではなく、未知なる言葉の到来を「受胎告知」と云う形式で西洋人が受けとるとき、聖性と悪徳が区別がつき難い領域があると云うのです。テレーズ・デスケルーと云う女が聖性と犯罪が見分け難く区別が出来ないような人間として描き出されていると云う点なのです。
 私たちは、この小説を読む場合、作者であるモーリアックが序文で装っている「テレーズよ!・・・」などと云う、情緒纏綿たるセンチメンタリズムに騙されてはならないのです。モーリアックの勘違いは、教護的な文学に於いても回心が予定されている素姓の分かった人物を描くべきではなく、ドストエフスキーのような価値判断を排したドロドロの無意識的領域の人物も、カソリック文学たるものは取り上げるべきだとするメッセージなり小説論は確かに良く伝わって来るのですが、悪魔はかかるロシア文学的な無意識の領域に生息しているだけでなく、カソリックの教義と大系と云う顕在化されたカテドラル(制度としてのキリスト教)の中にも不可視な透明な影として潜んでいたのを見ぬけていないのです。

 なぜこのような不遜なことを今回考えたかと云いますと、今回手にした翻訳書が遠藤訳でも杉捷夫訳でもなく、半世紀ほども前の高橋たか子と云う人の半ば忘れられた翻訳書の類の希少本に寄ったからです。高橋たか子と云えば、云わずと知れた、かって60年代の学園紛争の時代に一世を風靡した観がある第知識人・高橋和己の「伝説」の妻である。なぜかく不明朗な書き方をするかと云えば、和己の没後、彼女が著わした『高橋和己の思い出』と云う本が一時話題になったからである。全共闘運動の退潮する政治的季節の終わりに殉じるようにして死んでいった夫に対する、突き放した冷徹な描写が話題になったのである。と、同時に彼女の描くややオカルトじみた薄気味の悪さからして、さもありなん、と思わせるものがあったのである。

 わたしは高橋和己は好きではなかったけれども、死者に鞭打つような彼女の行為が重く澱んで記憶に残っていたて、たか子のこの書を読んでみて、まるで自死することを希求し、時代に殉じることを目的論的に命題化したかのような和己の、自分を追い込んでいった破滅型じみた彼の生き方を、妻と云う最も間近な位置で観察するたか子の冷静さに感心しました。この書のおかげで高橋の死にざまは正確で精巧に描写されていたかもしれないが、少なくともこれを書く者の視点は、身内のものが持つ視線ではなかったと感じたことが今でも記憶に残っています。

 私が所有しているたか子の翻訳本は1963年の奥書きを持っているから、その頃は和己も最後の学究生活の平穏さの終わりの時代を生きていたことになる。言い換えれば60年代後期の全共闘運動に全面的にのめり込んでいった時代の五年前と云うことになる。そして何よりも驚いたのはやがて自分を自死の世界に追い込んでいく破滅型の夫の傍らに、テレーズ・デスケルーに擬えて生きている女が日本にいた、と云う点なのである。

 テレーズ・デスケルーが聖性と犯罪を区別できなかったように、たか子は聖性と狂気が区別できなかったのではなかろうか。そのたか子は、日本でフランス文学者と小説家としての地位を築いたのちに、いまは無名のものとして、さるフランスの修道院で瞑想にふける日々を過ごしていると云う。

 私が高橋たか子に注目したのは、その日本人離れした感性の在り方に注目したのである。
 最初に、私がモーリアックの文学を読む場合に日本人には理解しがたい部分があると書いたのだが、たか子にはそんな違和は無かったのではなかろうか。冷酷と云ってもいいたか子の冷静さについてはカソリックの教義がある種の口実を与えたのではないかと思う。わが国にはもうひとりモーリアックの文学に薫陶を受けたと公言する遠藤周作の文学があるが、少なくとも遠藤の文学にかかるカソリックの構造的な冷たさ、と云うものを感じさせることはない。あるいは、読み方に寄るのだろうけれども、遠藤周作の文学はキリスト教が本来的に持つ冷酷さを、日本の風土に合うように習合させていった結果とも思えるのであるが、これは既にモーリアックの問題を超えて遠藤周作の世界である。