アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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モーリアックと20世紀の心理学諸派 アリアドネ・アーカイブスより

モーリアックと20世紀の心理学諸派
2013-07-08 12:54:38
テーマ:宗教と哲学

 


【補説:フロイト心理学やユングと無意識について】

 文学史的に考えると、モーリアック1885~1970が生きた時代は偉大な19世紀のフランス心理主義小説が終わろうとする時代に該当しました。周知のようにフランスで云うロマンの発達は神のような立場から全知全能の作家が登場人物たちの一々について委曲を尽くして人物造形や心理の陰影の襞を描きつくすことにあると云われています。ところが世紀末から20世紀初頭に人類が経験した事態は、人間が必ずしも叡智的な存在でもないし、その行動も合理性だけでは説明できない要素を孕んでいることが明らかになったのです。フランスの合理主義に対する挑戦はまず中欧から、フロイトの無意識を扱う心理学として提起されました。ついでもっと東方のロシアからドストエフスキーの文学として非合理な衝動のドラマが提起されました。このほかにもヨーロッパ大陸の周辺から烽火のように広がった反旗は、長年大陸における文化の王国を自負してきたフランスにとっては一つの驚異、として理解されたのではないでしょうか。そしてその脅威が等しく誰の目にも明らかにされたのが第一次大戦の勃発だと一般には云われています。

 なぜ、世紀末から20世紀初頭の精神史的軌跡をおさらいしたかと云えば、モーリアックの文学はフランス文化が周辺国のかかる驚異に対するリアクションの一つとして成立したという点を強調したいのです。例えば、フロイトの無意識の発見が理性の光が届かない無意識界と云う名前の原始的な心性が生息する、人間の文化の手が届かない歴史以前の混沌を提起したように、モーリアックの文学はフロイトの成果を取り入れた人物設定となっているのです。ですからモーリアックはカソリックの作家であるにもかかわらず、自分の創造した人物が定型的な回心の物語や殉教の説話にならないように、価値判断を通過する以前の道徳的無前提性に基づいて造形したのです。ですから小説の中でヒロインであるテレーズ・デスケルーに一度として道徳的な反省や宗教的な悔悛の気持ちが齎されないのには理由があるからです。
 ところでフロイトをはじめとするヨーロッパ的なものの考え方とは合理と非合理、理性と無意識を鋭く対立させました。ヨーロッパ的知性の特徴は理性や合理性を極めて狭く厳密に解釈するところに特徴があって、理性や合理性に反するものを容易に原始性と同一視してしまうのです。それで文明の光の届かない領域や無意識的な領域を単純に「善悪の彼岸」と同一視してしまうのです。モーリアックの場合はカソリックの作家ですからこれを容易に「罪」概念と同一視してしまうのです。
 これは、むしろ何故テレーズに道徳的な観念が成立しないのか?と問うべきなのです。それはモーリアックも良くご存じのはずの人間の上方に向かう聖性と云うののが――下方に向かうフロイト的な無意識や混沌と同様に、価値判断が不明瞭になる領域が存在するからです。それはフロイドの暗黒の無意識に対して、聖性と見分け難く存在する透明な無意識と呼んでもいいでしょう。
 もうすでにお分かりかもしれませんが、この透明な無意識こそのちにフーコーらの構造主義的心理学が明らかにする「知の権力」の問題性の先駆をなすものの考え方です。長生きはしたものの基本的には19世紀人であるモーリアックにはこの二つの無意識的な領域の区分が十分には出来ていませんでした。その結果神の全能の前に描き出される人間の悲惨を、それがそのまま恩寵に価しない病的な現実を描いているにすぎなくても、宗教を口実に何とか救済の痕跡でも見出せないかと無意味な努力を強いられる結果になったのです。その努力は不毛でした。シジフォスの神話のように悲劇的でした。

 ユング心理学の欠点は、アニマやアニムスにしても、原始母や老賢人の概念にしても、とりわけ有名な集合的無意識の概念が超歴史的、超概念的なものの考え方であり、およそ科学的な手法とは云いかねる点があるからです。
 フロイトにしてもユングにしてもヨーロッパ的な思考の在り方に従って、最初は「人間」と云う概念から出発するのです。「人間」と云う概念をとらえる場合に、それを合理性に於いて捉えるか非合理的な衝動によって説明しようとするのかはこの際問いません。むしろ「危機に晒された人間」と云う概念がそのまま19世紀から20世紀に至るヨーロッパ人の物の考え方を上手く象徴していると思えるのです。

 ところで「人間」とは諸学が発生するに当たって前提されるような実在的な根拠ではなく、人間が文化と云う意味様態の世界の中で、主として言語を用いた意味文節作用の中で事後的に形成される「なにものか」であるのではないでしょうか。
 つまりわたしたち「人間」は言語や文化と云った意味文節作用の中で、ちょうど繭の中で生きている蚕のようなものなのです。「言語」の外に「世界」はなく、それゆえヴィトゲンシュタインは世界の限界と言語の限界は等しい、と云うことが出来たのです。

 ヴィトゲンシュタインの欠点は、西洋文明の伝統に従って、「言語」を余りにも狭く解釈するきらいがありましたが。・・・・・と云うことは、プラトン的ものの考え方以降の西洋的なものの考え方の偏り、と云う点に言及し問題史的には波及することになるのですが、あくまで見るものとみられるものをアプリオリに分離して考える習性があるのです。それをここではイデア的言語と云う風に名付けておきたいと思います。ですから言語の限界は世界の限界ではなくて、ヴィトゲンシュタインの限界だったのです。かかるプラトン的なものの考え方からキリスト教を経てヴィトゲンシュタインに至るものの考え方を、大雑把に静態的な言語観とひとくくりにすることが出来るとすれば、静態的でない言語観もある筈で、そこから人間はまた希望を汲みとることが出来ると私などは信じているのです。

 ふたたびユング心理学に話を戻すと、ユングはまるで集合的無意識の概念を人類の資産のように考えているのです。人間の歴史的記憶の中には深い地下のダムのような無尽蔵の金塊の倉庫のようなものがあって、何時でもそこから人間の叡智的な資産を引き出せると云う考え方です。ユングはスイス人ですから如何にもブルジョワ的な発想の仕方と云えば云えますね。
 結局、ユング心理学が宗教界と縁を切ることが出来ないのは彼のこうした超歴史的なものの考え方に対する好み、思想的な偏向にあるのであって、たしかに人間世界に元型的なものが認められるにしても、それはプラトニズムのようなあり方であるのではなくて、言語の意味文節作用と云う「人間の繭」から離脱したときに見出される、個性も何もないのっぺらぽうの無名性なのです。

 この無名性がやがて大衆的社会事象となって全体主義の中で取り上げられる経緯にまで言及するとすれば余りにも大雑把な即断と批判されもするでしょう。まあ、それは後日の課題と云うことにして、少なくともヨーロッパの古典的な諸学がファシズムによっておしなべて弾圧された中にあって、ユング心理学が許容されたこと、親和的とまでは言わないけれども、20世紀に生じた「文明と云う名のの野蛮」に対して殆ど抵抗らしき抵抗がなかったことの理由の一つの証左にはなると思えるのです。

 話が余りにも拡大してもいけませんから、モーリアックの文学と云う当面の課題に引き戻せば、テレーズの直面した現実こそ、それを私の側から説明すると、言語と云う意味文節的な世界が崩壊した段階に生じる精神の荒涼的な世界風景だったのです。

 人間における元型性の発見とは世界銀行における資産の引き落としなどではなく、人間における意味文節作用の解体を通して露出してくる元型性の出現とは驚くべきことに、人間の人間らしさとは言語や価値の発生がそうであったように、微妙な差異活動に淵源するものであることが理解できるのです。精神病理学に云う統合失調症について云いますと、精神の混濁であるどころか健常人も及ばないようなある種の明晰さにすら達していることが見出されるのです。病は鋭い直感を与えます。こうした世界に立ちいたると従来の人間の評価軸が全て無意味に思えることがあるのです。人間の人間らしさとは、顕在的に現れるような能力や個性と云ったもので代表されるのはなく、ふとした言葉や意識に登らない、ためらいとか躊躇とか猶予といった最もプライヴェートでもあれば最も身近な個人の差異性に他ならないのです。
 話が絵画史に及んで恐縮ですが、同じフランドルの母体から出現するレンブラントフェルメールにどのような違いを想定するでしょうか。レンブラントには新興の市民社会の誇りのようなものを感じます。フェルメールには個人の秘密と云うようなものが許容される社会の寛容さのようなものを感じるのです。

 『テレーズ・デスケルー』の中に、ジャン・アゼヴェドと云うインテリが出てきますが、彼はやがてハイデガーのような本を読むようになってある種の国民運動に加担する青年類型になるのではないかと危惧しています。自己からの超克のような思想を解くような彼こそ、秘密を許容するような柔軟さを敵視する人物類型になっていくのではないかと想像しております。
 同じくジャンに捨てられるアンヌ・デスケルーと云う女性が出てまいりますが、知性が無いのを除けばボヴァリー夫人の末裔であることは明らかでしょう。少女の瑞々しい自然と交歓する感性が如何にして伝統的社会の紋切り型の価値観に習合していくか、それを描くモーリアックの筆は意識はしていないようですが哀愁と云うものが感じられます。これは現代人モーリアックのフランス文学の伝統との別れの挨拶というふうに理解してもよろしいと思います。彼女の無垢なる心性がジャyンとテレーズの愛に対する嫉妬心によって無残にも切り裂かれる場面は、実を言うと夫を毒殺する行為とならんで最も許し難い行為であるように思われます。ここにも恋とか愛とか元々から個人的でプライヴェートな領域にしか生きる事の出来ない生物に対する残虐さ、不寛容さが表現されていると思います。
 何の咎もないのに妻の気まぐれで毒殺されかかるベルナールも哀愁を帯びた存在ですね。ソルボンヌの法学科を卒業しているのに知性を書いた伝統的社会の衣鉢を守る事だけしか眼中にない男、この男は疑うことを知らない見識の無さゆえにやがてはフランス社会から放擲される没落が運命づけられた地方の、無力な有産階級に属する人物なのです。
 そうした背景を併せて読むとこの男もなかなかに味のある男であると云う気がするのは私だけでしょうか。歴史の変動期に於いては、ジャン・アゼヴェドのような過激な思想の持ち主が犠牲の羊として最初に槍玉に挙げるのはこうした類型の人間タイプではなかったかと思われます。そうした意味では、テレーズの前に彼が誘惑者として現れるモーリアックの演出はなかなかに冴えていると思います。つくづく文学は奥が深いと思います。
 まあ、モーリアックの文学について色々と云いましたが、作家としての個人的な思想はともかく、作家的な思惟の意図を超えて、形象化された作品としての『テレーズ・デスケルー』がここまで広く、当時の時代相と云うものを描き得ていたことに、改めてモーリアックの才能と云うものに敬意を払いたいと思います。たしかに、前稿で比較したアンドレ・ジッドやグレアム・グリーンの文学よりも新しいのです。

 わが国には、「テレーズ・デスケルー問題」と云うのがあって、遠藤周作が晩年ユング心理学に傾倒した事の理由も何となく想像できるような気がしますし、高橋たか子のような日本人離れした感性の持ち主が早い時期に『テレーズ・デスケルー』の翻訳者として出発し『高橋和己の思い出』のような本を書いたこと、最終的にはカソリックの信条告白に至ると云うのもヨーロッパの宗教と云うものを考える場合にとっても暗示的だと思います。