アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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内田吐夢の『宮本武蔵・一乗寺の決闘、巌流島の決闘』アリアドネ・アーカイブスより

内田吐夢の『宮本武蔵一乗寺の決闘、巌流島の決闘』
2013-07-09 13:16:48
テーマ:映画と演劇

 

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・ 内田吐夢宮本武蔵五部作を見終えたことになる。こうして並べてみると五部作のクライマックスは映画史上有名な一乗寺の決闘にやはりあると云う気がする。内田吐夢の武蔵五部作は不思議な映画で、第一部の終わりで白鷺城に一室に蟄居するようにしてある種の達観に達した筈の武蔵が、こと志とは違って堕落していく物語である。第二部の般若寺坂の決闘では当面の敵と不可視の敵の両面に対する闘志を確認しながら自らの不覚を悟る映画であった。それが一乗寺の決闘となると見分け難い利害と純粋な志が混沌とした状況の中で、不可視の敵を外に見るだけではなく自らが最も典型的な類型を演じてしまうと云う悲喜劇を描いていた。武蔵は一夜、祇園の吉野体夫に教えを請うて、強気を矯める間合いと云うミステリアスな経験について会得する。映画では描いていないけれども祇園の一夜は武蔵の女性経験をも描いたのではないのか。その結果、武蔵に於いてはそれが女性一般の開眼とならずに、通常とは違った経験となって結実する。つまり永遠の女性・お通さんを巫女のような、自らが触れてはならぬサンクチュアリへと追いやるのである。

 内田吐夢描く、お通さんと云う女性は不思議な女性であって、道徳的な品性が低い人物たちが活躍する場面には不在であるし、彼女が登場してくる場面では善人しかいないと云う、不思議なイデオロギーのいたちごっこがある。だから佐々木小次郎吉岡清十郎と云った武蔵の世界を彩る主要な副主人公たちが活躍する場面では彼女は決まって不在なのである。まるで内田の映画作法は、お通なる女性を見る資格というか、見ることができるものとそうでないものとが選別されてあるかのようである。それでお姫様女優と云うと通例、悪者にかどわかされたり悪代官の好色の餌食になりかねないのだが、そういうことがお通に関しては一切起こらないのである。

 また、武士道と云うのは葉隠れ武士道に代表されるように、主君に対する無限の恋情に基礎を持っている。主君に対する恋情とは、叶わぬ恋に対する恋慕と容易に一致する。つまり昔の日本人は至高の概念を説明するのに、恋愛の形式を用いていたと云うことである。日本人には本当の恋愛がないように云う洋行帰りの人がいるけれども、ここまで偏って恋愛感情に擬えてイデオロギーを語る国民もいないのである。

 武蔵の武士道が葉隠れ武士道と異なる点は、後者が、慕い諦めて狂い死ぬと云うあり方を武士道の最高形態とみなしたのに対して、愛を告白し、言語として表現することに於いて自他の間に介在する無限の深淵の深さを理解し、この世にあらざるものとしての彼岸と此願(ひがんとしがん)と云う理性的構造的認知として別れ行く道筋を、感性の厳粛さとして受けとめることのできる武蔵の感受性の在り方にある。

 武蔵の魅力は武芸に卓越しているだけでなく、内田吐夢描くところの独特の性愛観にも云えることであって、なぜ武蔵が小次郎や吉岡の面々に破れなかったかと云えば、見えないものを見る視界の深度の違い、と云うものがあったはずである。深度の違いとは、一言で云えば切っ先の深さと云うことである。武蔵の実力が敵と拮抗することなく一撃で倒す乾坤一擲とも云える威力を有するのは、見えないものを見ることのできる彼の不可視的視界の、視界深度の深さにある。

 武蔵の強さは武芸者としては切っ先が届かない相手を一撃で倒す。兵法家としては、多数を相手に走りながら切ると云うのが彼の流儀である。一乗寺下がり松の決闘に於いては、76対1と云う絶対的な数量的格差の中で走りながら追いつく相手を一人ひとり倒していた。巌流島の対決では、巌流島と云う敵がわが設定した舞台の乗り込んだ上での勝負に於いて、小次郎を倒すことよりもその後生じる出来事、――すなわち細川藩の師範代を破ったとあれば無事にこの世には帰還できないと云う政局的な構図を武術に戦術的に統合し、波打ち際をひたすらに走り、追いすがる小次郎を一撃のうちに倒し、間髪をいれずに用意しておいた小舟に乗って潮の流れの変化を利用して彼方に脱出すると云う戦略であった。
 つまり武蔵は巌流島の決闘に於いて、武芸者としての武力と兵法家としての戦略を統合したのである。

 しかしそうであるにしても、武蔵は何処に行こうとしているのであるか?彼はそんな時代遅れの兵法を武器にして何に向かうおうとするのであるか?現実の呵責なさと純粋理念の間に凡そ間隙と云うものを有しない武蔵の古流の武士道に太平の世と応答し均衡する術はあるのか。武蔵をめぐる閉塞感は、そのまま60年代の日本の情況であった。島原の乱五月革命は近いけれども、価値観の違うものたちの目には見えてこなかった。不可視のものを観る武蔵の見識はどうだったのか。
 こうして武士道は一方では忠臣蔵の昼行燈の武士道として、他方では葉隠れの狂い死にの武士道へと分化していく。