アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの『聖なる泉』アリアドネ・アーカイブスよりより

ジェイムズの『聖なる泉』
2013-07-09 22:19:47
テーマ:文学と思想

 

・ 伝説的なヘンリー・ジェイムズの問題作、『聖なる泉』のいよいよの登場である。
 さるアメリカ人が電車の中で読書する日本人の題名を見て、それが『黄金の盃』であることを知って、米国でも読まれていない日本人の読書力に驚嘆の言葉を発したそうだが、殆ど読む人も希だと云われる後期の大作『黄金の盃』を上回って、知る人ぞ知る、と云うのが本書である。出版元が聞き慣れない国書刊行会、しかもゴシック叢書と云う分類である。

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・ しかしヘンリー・ジェイムズと日本の読書会の慣れ染めには不思議な因縁があって、漱石の”ウィリアム・ジェイムズは小説のように解りやすく心理学を説き、ヘンリーは哲学のように小説を難しく語る・・・・・云々”、正確な引用でないので申し訳ないが、概略そのように申しているそうである。
 またある人によれば、ヘンリー・ジェイムズの文学と日本の読書会の不幸な出会いはジェイムズの文学の読破を企てた前記の漱石が、後期の難解で知られる『黄金の盃』で躓いて辟易してしまったことにあるそうだ。これも伝説であるからどこまで信用して良い、というものでもない。『三四郎』などを読むと確かにジェイムズ的であるし、最晩年の『明暗』などは『黄金の盃』を思わせるところ、なきにしもあらず、と云う感じである。
 昭和にはいるとかの堀辰夫が、取りあえず彼の小説の方は脇に於いて自伝の方から手を付けたことを中村真一郎が伝えている。これがどうなったかは分からない。少なくとも『菜穂子』などに痕跡が見出されれば良いのだが。
 そして当の真一郎自身がジェイムズの小説では、『聖なる泉』が一番だ、と云うようなことを漏らしているらしい。どう云う意味で云ったのか分からないが、30年代に流行った純粋小説の概念に照らしてなら納得するような気もする。ちなみに、純粋小説とは複雑になり過ぎたロマンの様式からの反省から、小説からロマネスク以外の何ものをも持ち込まないと云う、純血主義的なものの考え方の一種である。

 なぜこのような事を長々と書いたのかと云うと、つい、わが国の読書界では文豪と云う名を聴いただけで怖気づいて、解らぬことでも既成事実化して語る習性が認められるからである。自らの感性を信じて断定することをことのほか嫌う風土があるのである。それで先日述べたモーリアックの『テレーズ・デスケルー』のような小説であっても、実際はゾラ風の自然主義的なリアリズムの域を幾らも出ていない作品なのに、カソリックの作家が書いたと云うだけで物語の結末に後光めいた啓示のシグナルや恩寵を認めたような気分になるのである。特別にカトリック文学と云うのものがあるわけではない。質の高い文学とそうでないものがあるだけなのである。
 話を同列には論じられないのだが、本書にもそのような傾向がジェイムズの文学研究史の中にあるらしく、これを「無視できない地位を占める」(青木次生)問題作、などと書いたりする人がいるのである。前記の中村真一郎あたりの感想もこの域を出るものではない。

 『聖なる泉』はその表題に反して、軽薄な作品である。
 ジェイムズ自身もそれを認めていてこう書いているそうである。訳者の青木次生が伝えている。

”(この作品を読んで)、まるでもみがらを噛むような思いをされたのではないかと心配しています。・・・・・この小説は・・・・・趣向が薄っぺらなものですので・・・・・”云々。

 ジェイムズの当該の小説の概要を紹介すると、ロンドンから列車で一時間ほどの所にあるニューマーチ邸と云う大きな別荘に呼ばれた暇なだけが取り柄の、無能力の俗物どもが集う一夜の「夏の夜の夢」である。
 既婚の男女が群れ集い、誰と誰がくっついてそうではないと云う空想と饒舌と議論が、「私」なる独身男の観点から、有意味に増幅されて描き出される。その有様は喜劇であって、何が喜劇かと云えば、この世の晩餐会に集まったメンバーもメンバーなら、それを暇を持て余した独身男である「私」の、性的な偏見に満ちた眼差しと色眼鏡で描く万華鏡的な風景がとてもグロテスクなのである。

 こう書くと、想像力過剰な独身男の悲喜劇を描いた後期の名作『大使たち』などの傑作群を思い出させるのだが、この実験的な作品にはヘンリー・ジェイムズ固有の聖なるものを天上界に救済する力はない。ただ無意味な論説と考察が延々と続くだけでやたらに読者を疲労困憊させる。最後に「私」が夏の夜空に描いた硝子張りの建築物は脆くも根底から崩壊するのであるが、結局真偽が最後には明白になり、ただ全能の作者が後退し、語り手や登場人物の夫々が自らののポジションにおいて見えたものと見えたと信じたものを語ると云う語り口において、他のジェイムズの文学と技法的には共通するものがあるにはある。しかし、『鳩の翼』以降の三大作品と異なるのは次の点である。――

 一般にヘンリー・ジェイムズが語る物語の多義性や不可知論を理解するために言われているのは、物語を語る19世紀的な観点――サルトルの云う”神のごとき視座”の欠落や、物語的宇宙の進行を多様に語る登場人物の多元的語りのせいにされることが多い。卑近な例では黒沢明の『羅城門』のように、事件は関係した人物の利害関係の濃淡に応じて如何様にも多様に語り得る、という点である。加えて人間と云う動物は時に利害を超えた非合理的な衝動にかまけることもあり得るので、それらの組み合わせは無限というほどの多様性をみせる。

 上記の説明を価値的多元論とか不可知論とか云う所のものであるが、ヘーゲル以降の現象論に於いては、事態の進展は多様であり得るけれども、そこには関与の度合いとか感心の高さ低さが相関的に関係し、多様な見え方は、唯一一個の真実に対して真実は同時には得られないとか、結局多様な部分的認識だけが無数に成立するというようなことではなくて、そもそも唯一一個の真実と云うようなものはなく、主観があり客観がある、実験対象があり実験施設があり観察者がクリーンルームの中に入ると云うような極限的な設定で求められるような自然科学的な異なった真実の様態、真実は行為の関心の度合いによってその都度毎の真実を実現する、ということを教えているのである。

 この簡単な学説史的な紹介から結論を導くとすると、『鳩の翼』・『大使たち』・『黄金の盃』のような真にジェイムズらしい作品は現象論であり、『聖なる泉』のような実験的な作品は価値的相対論か不可知論に基づいた習作と云うことになろうか。

 「聖なる泉」とは、人間関係に於いて、人を若返らせたり老いを加速させたりする、神秘の能力である。読者諸氏が本作から『聖なる泉』としての不老長寿の薬を見出せるかどうかは本人次第だということになろうか。