アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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高橋たか子の『誘惑者』アリアドネ・アーカイブスより

高橋たか子の『誘惑者』
2013-07-12 12:51:59
テーマ:文学と思想

 

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・ さほどの傑作ではないか,というのが第一印象である。
昭和初期に実際にあった出来事に素材を取りながら、小説には高橋その人を思わせる登場人物が出てくる。自殺願望などといっても、最初は案外、根が浅いものだなと思いながら読み始めて、ようやく第四章以降、主人公と織田薫の位置が逆転してくる、そこからが俄然面白くなる。京都の旧家に生まれて土蔵の中にいるかのような重い澱むような伝統的時間の気圧なのかで沈殿し、分解し腐敗し発酵しているのは高橋自身ではなかったか。だとすれば高橋の自殺願望を織田薫に託けて旧家の血などという定型的な表現形態で済ますことは、精神界の冒険者としては落ち度になるのではなかろうか。死への衝動は、それだけで説明できるようなものではなかった筈だ。

 一見していまひとつ感じられる高橋の特徴は、時代への無関心である。
 敗戦を、いまで云う中学・高校という最も多感な時代を過ごし、50年の京大入学以降の数年間は日本の政治史において激動の時代であった筈である。また本書を書き始めた75年とは60年代の和己が参画したベトナム反戦等の一連の出来事が空無かされていく状況の仲で、何らかの形で時代の私的な総括を求められていた時代のはずであった。しかもたか子は、あの一世を風靡した高橋和己の妻ではなかったか。夫と彼に代表される時代のオピニオンたちに対して強い違和感を感じ続けたのは分かるが、恋人として妻として身近に観察者として会ったはずの彼女が、間違っても第三者のレポートのようなものを書いてはならないのである。
 それは、政治や外面的な出来事の何処にわたしたちの魂を満たすものがあるのか、文学的世界の豊穣さとは所詮無関係である、と夫である高橋和己と彼にシンパシーを奉げた部門を批判してみたところで、それで済む問題でもなかろう。要は、言語を彼女がどう考えていたか、という点なのである。
 言葉とは、表現者において死活の問題である。

 わたしは政治などには関心がない、むしろ自己の無意識的な、理性の光の届かない領域に文学的課題や真の人間の在り方を認めたい、と考えることと、直接には和己のように戦後の政治的状況を『憂鬱なる党派』や『邪宗門』のように描かなくても、現実との間に不可視の言語的緊張関係を、言葉がもたらす平衡関係について、自覚的であるかないかと云うこととは別のことなのである。
 結局、『誘惑者』の登場人物が、部分的には必死に悩みつつ苦しみながら生きているのは分かるのだが、――たか子その人の真摯さは理解できるのだが、人物造形において現実に生きていると云う確かな実在感をこの小説に感じられないのは、――類型的な人物像の、作り物じみた人為性を感じるのは、やはりたか子の言語観に寄るのだろう、などと私などはと思う。

 わたしには、究極のところ、鳥居哲代、砂川宮子、織田薫、の三人が夫々に示す死への願望、――二人は自殺実行者として、一人はその幇助者としての違いはあるにせよ、自殺に至る必然性があるとは思うのだが、それが説得的に描かれているとは思えないのである。その原因の一つは、先ほど述べたたか子の言語観である。内的であれ外的であれ、彼女が築きえたと信じた現実との関係である。

 具体的に云えば、こういうことである。
 最初の自殺実行者・砂川宮子、――幼少の頃から枕の近くで眩暈のように聞いた母親の押さない娘の床の周りをお百度を踏むように廻る執拗で脅迫観に満ちた足音と、今は結婚を無理強いする強制力が彼女をしに追い詰めたと言われるのだが、なるほど、そうした自体で人は死ぬかもしれないが、その出来事を通じて何が通低的な出来事が語られているのだろうか。ありそうな説明を聞いて、そんなこともあるんだね、というだけである。小説の中で物分りが良すぎると言われて批判さされる主人公の鳥居のように、たか子の文学は物分りがよすぎるのである。この物分り良さが、死ぬ前に”あなたが死をそそのかした”では本人も作者であるたか子も、もそして読者も納得できないことだろう。
 二番目の自殺実行者・織田薫に至っては、前半と後半では人間像が一変する。旧家の彼女の澱んだ血と死への願望が語られてくるにつれて、これが高橋の自画像に一部酷似してくる。しかし古い出来の悪い日本人形のような彼女は人物造形としては膨らみを欠き、何か造花のようなイメージを与える。
 主人公である鳥居哲代の失敗は、自殺幇助者としての不気味さを貫徹できず、と途中から織田薫の高橋たか子ばりのキャラクターに、――と云うことは物語世界が作者に、飲み込まれた点でだろう。わたしは、何故彼女が二人の自殺願望者から”あなたのせいだ”と言われなければならないのかの理解に苦しむ。
 もし小説の作法において、かかる類型性を用いるのであれば、少なくとも終戦直後の世相を描くようなリアリズムの小説とすべきではなかった。カフカの寓話や儀古典的な説話や伝説とすればより欠点が目立たないものとなっただろう。

 小説は所詮、作り話でありほら話である。かかる表現が下品であると言うなら、小説とはフィクションであるに過ぎない、と言い換えても良い。しかし近代小説がいわゆるレポートやその他の叙述文と違うのは、言語が現実性との間に取り結ぶ言語感覚にある。現実の重たさと言語の緊張関係が平衡関係に達するとき、文体が、作家の固有な語り口と言うか、基本的なトーンが生まれる。
 要は、高橋たか子が戦後を代表する作家としてそうした言語観を見出したか、という点なのである。彼女の描きだす人物造形が、作家のモチーフとしては切実な関心に裏付けられていることは分かっても、実在性を感じさせないのは言語観のほかに、何か彼女が大事なことを語り忘れているからである。

 それは何か?それはプライベートなことなので彼女が語らない限り分からないことだろう。しかし彼女の言語観が必ずしも現実性との間の拮抗するような緊張感を伝えていないことからすれば、やはり語り忘れているのである。
 高橋たか子、1945年の終戦当時13歳、価値観が一転し国民の多数が貪欲な生の渇望に見舞われたとき、自殺願望は思想史的には何を意味したか。その黎明の深窓意識のところまで届いていない。むしろ『誘惑者』たちの深窓意識にあるものは、かかる国民の多数派的感性に対する何がしかの関数的な表現でありえたはずである。
 また、自殺幇助者としての真迫の演技は、先天的な自殺願望者・高橋和己と共に歩いたぎこちない、終戦後の二人三脚についてのドラマの中で、皮肉なことに小説以上のリア入りティを持って生かされたはずである。和己が目指したのは作家たることではなく殉教者たることであったのだから、戦後のセバスチャン劇の中に何を見いだしたのかが語られなければならない。高橋和己の異様さは当時の京都大学の異様さなのではなく、散華の最後尾の世代としての和己の自覚のあり方だったと思う。散華とは、高橋の場合戦中の総括的な思いであると共に、自らが創作した和己的小説世界で生き死にした登場人物に対する鎮魂、あるいは60年代に退場を余儀なくされた物云わぬ敗者への鎮魂、という意味をも秘めていたはずだ。
 そうした宝の山のような時代経験が、たか子の文学では抜け落ちているのである。

 とは言え、第六章以降の織田薫の変貌、彼女と鳥居哲代と位置関係の逆転にともなう物語空間の捩れ――二人の自殺願望者の囲まれて、二人を繋ぐ聞き手として設定されていた鳥居哲代が、単なる幇助者であることを超え、殺人者として変貌し得る過程において織田薫が果たす、ぎらぎらとするような誘惑者としての役割は読んでいて迫力を感じる。自殺願望の誘惑者、幇助者として位置づけられていた鳥居哲代が、死の巫女としての協力関係を超えて殺人者として再生するのだが!
 高橋たか子の凄いところは、遥かなる聖なるものの顕現、最初の告知が殺人者になるという主体的決断の形で、犯罪性が見まごうような聖性という形で現れることである。キリスト教の神と悪魔などという陳腐な二元論の突破が自覚的に捕らえられていたかどうかは、その後のたか子の軌跡をみると分からない。

 聖性とは悪魔学の反対であるのではなく、予言と凶行という次元において日常性が持つ揺ぎ無さが破壊されることであり、両性が見分け難く混交する領域なのである。
 たか子は、日常性を超えた理性の光の届かない意識の暗い領域を罪と同一視した。それが悪魔学への関心となり、罪意識が反転してカソリックへの回心を帰結させた。それはわたしには必ずしも必然的な過程ではなかったようにも思われるのだが。ともあれ、――

 その文学的リアリティの変貌――意識としての殺人者である事の自己選択、はたか子にとって何を意味したか。
 ある場面から『誘惑者』はその物語的空間を越えて、高橋たか子その人のプライベートの領域へと越境しつつ侵犯しつつあるという、物語外的な要素が大きいのではなかろうか。古い出来の悪い日本人形のような高橋たか子描くところの織田薫の能面のような表情に、やがて高橋その人の面影が浮き出てきて二重画像となる、その二重画像の人物が、第一の自殺願望の犠牲者・砂川宮子の死への道行きを、死への足取りを執拗に追うとき、その足取りを執拗に再現するように知るとき、語ることにおいて暗示と伝説は一体となり、現実を越えた不抜のリアリティが成立する。

 ここにもまた、単に出来事の進展が生起したという事実のレベルの叙述ではなく、生起した事象を受け止める一個の実存としての人間がいて、当人の語りのトーンの中に幻想的に伝説が再現するということにおいて、初めて文学は現実を突破しうるものとなるのである。それを聖性と言うか犯罪性と言うかという違いが残されるだけなのである。文学の力はつくづくと凄いものだと思う。

 それは、もしかしたら、久しく宗教というものが見失っていたと思われた現実を破壊する起爆剤のよなものであったのかもしれない。現実の起爆性は自爆性として、手っ取り早く言えばテロリズムめいた犯罪性として、聖性と見分けがたい形で高橋の内面に映じていたのかもしれない。なぜなら犯罪性こそは見分けがたい形で聖なるものの刻印を等しく受けたもの、不可視の対象であるはずなのであるから、そのようにたか子には思われたのである。
 たか子にとって、恩寵とは滲むような血が地平線に描き出す黎明の、魔の徹夜祭の暗黒のように禍々しかった。それは少なくともカソリックの宗教家の信条告白の形式とは著しく異なっていた。