アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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キリスト教と悪魔 アリアドネ・アーカイブスより

キリスト教と悪魔
2013-07-15 12:14:45
テーマ:文学と思想

 

・ キリスト教と悪魔と云うと、通俗化された悪魔払いなどが思い出させられる。随分前に話題になった映画『エクソシスト』などを見ると、なんと悪魔はイスラムのイメージとダブって映像化されるなど、荒唐無稽さが目立つ。少なくとも、悪魔については民衆的なレベルでのある定型化されたいイメージがあるようだ。

 これが20世紀のカソリックの文学になると幾分事情が違ってくるようだ。
 世界史的には――西洋を中心として考えると、クリストファー・コロンブス以来の新大陸やオリエント(東洋)の諸国の発見は未開を、地理的な未開と習合する形で20世紀になるとフロイドらによって発見された無意識とオーバーラップして考えられるようになった。
 文学史的に云うと『ボヴァリー夫人』の登場は人間存在が原因不明の何か情念的なものによって突き動かされていると云う文明の中の未開と云う、もう一つの”オリエント”が語られている。『ボヴァリー夫人』の夫・シャルルは、かかるオリエンタルなもの振り回されて不遇のうちに死ぬ。
 これがモーリアックの『テレーズ・デスケルー』になると夫殺しと云う無意識の衝動が倫理観や道徳観、社会的規範とは別なところで、何か人間的な基本的な状況であるかのように語られる。つまり人間的にも夫としても申し分のない夫にある日非合理な衝動のままに殺意を抱くと云う設定は、19世紀的な心理主義的な解釈では語りえないことを物語っている。
 この系譜は、一部実存主義や不条理の文学としてフランス文学の伝統として脈々として伝えられていったのであろうと思う。

 さて、戦後のある時期、フランス文化の圧倒的な影響下にあった日本に於いては様々なアプローチが繰り返された。プロテスタント側の経験としては、例えば森有正などの”経験”概念の発見、――これはなかなか森の著作を読んでも解り難いのだが、要するに言語が標準語以前の日本語が多くの位階制的カーストによる分業型の言語であったのに対して、フランス語がフランス革命等の国民経験を経ることによって生みだした普遍言語、つまり現実との一定の平衡関係にある言語の発見だったのであろうと思う。理解を容易くするためにこれを観念と概念の違いと云ってもいいのだが、これは社会的経験の有無に関わらずヘーゲルなどのドイツ古典哲学では一般化された事態であったようだ。それで哲学的な言語を介してならば森のように容易にフランス語の国民性を理解することが出来たのだろう。
 しかし森有正のブームは、一過性のものに留まったようである。

 他方、カソリック側の経験は、特に遠藤周作らの営為に助けられてより広範な影響を示したようである。『沈黙』は一般に西洋のような普遍的言語のないところで個人には如何なる抵抗が可能か、と問うている。己の信念を貫いて殉教者の道を選択するか、あるいはカソリックの超越的な神概念を修正して日本的な習合の在り方に狙いを定めるか、である。
 『沈黙』の難点は、かかる「普遍的言語のないところで」と云う前提が、作家遠藤周作の中で必ずしも自覚的に問われず、いきなりキリスト教に固有の問題として一般化した点に難点がある。遠藤周作の文学に救いがないように感じられる悲劇性は、設定された時代の過酷さゆえの悲劇性であると云うよりも、彼の言語観が問われなかったことによる。

 ところで「テレーズ・デスケルー」問題と云うのが固有な領域であるのだとすれば、遠藤周作ほどこの問題性に関わった者はいない。モーリアックの文学は、テレーズのような者にも救いはあるか?と問うているかのようである。テレーズがドストエフスキー型の人物と違うのは、自らの実存を問う自我の不在にある。ドストエフスキーの文学の中の人物のようであれば、如何に悪逆非道に描かれていようとも、作者の筋道を信用する限り不毛であるとか徒労であると云う気はしない。しかしテレーズのように内面性を欠いた存在の場合はどうなのだろうか。モーリアックはカトリックの作家であるから、かなり極端な設置が可能であると信じたようだ。
 
 一切の社会的規範性や道徳・倫理を無効にするような、人間の原本質、と云うものがフロイドなどの20世紀の思想的諸流が明らかにした点である。人間の原本質に対して名前を与え――つまり病名と症例を与えることによって、それを対象化された領域に理性の光でピン止めし、標本化することによって無害化すると云うのがフロイトたちの手法であった。
 理性の光とは、カソリックにとっては無意識的な衝動を「罪」として理解することであった。それは誰しもが持つと云う意味で原罪の如きものであるとともに、理性であると云うことは必然的に極限化を求めるものであるから、ここから「殺人」と云う設定は容易に出て来るのである。それで『テレーズ・デスケルー』には殺人の問題が必然的に見え隠れするのである。

 遠藤よりも「テレーズの問題」をより受容的に生きたと思われる高橋たか子の場合は、『誘惑者』が自殺幇助から殺人と云う事態を自らに選択する過程に於いて、魔性と聖性の逆転が見られる、あるいは見られると信じた!
 つまり生半可な教義問答や告解などではなく、普段の日常性の破断の中に於いて容易に聖性に近いものをみようとすれば、犯罪もまたそれに類似した構造を持っていることに気付かざるを得なかったのである。

 無意識の世界を悪と同一視することは、悪魔学への関心となり、犯罪性が持つ聖性と共通する構造を反転することで、聖なるものに至ろうとする、二段階の屈折した回心の物語が出現する。これはカソリックの文学を超えて、三島などによっても試みられた現代日本人の病理である。
 しかし無意識を悪や罪と同一視することがなければ、カソリックの回心のドラマも、そして三島の悲劇も、必ずしも必然化された過程ではなかったのである。