アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

特別追悼――高橋たか子の死 アリアドネ・アーカイブスより

特別追悼――高橋たか子の死
2013-07-26 16:10:32
テーマ:文学と思想

(ある追悼)


http://ts4.mm.bing.net/th?id=H.4923876154606243&pid=1.7&w=90&h=147&c=7&rs=1

 7月18日のメディアは一斉に高橋たか子、12日の逝去を伝えた。偶然とは云いながら、彼女が最後の秘蹟を受けて霊界に旅立とうとするころ、かかる乱暴とも無理解とも不用意とも思える文章を書いた人間が、まだ一人いたわけである。
 彼女は若くして無意識的なものの魔力に取りつかれた。『空の果てまで』(1973)は、自分の周囲の人間環境を魔界へと巻き込んでしまう女の宿命を描いている。魔的なものを通して、聖なるものへ、キリスト教の神の座への裏参道から接近しうるかのような予感と云うか切願は、既にこの頃からあったようだ。しかし「観念小説」を気取る彼女には、その根源的な体験を描いてみると云う勇気はなかったようである。なにゆえカソリックかと云う理由がさほど自明とも思えないのである。なるほどキリスト教の文明はいちめん悪なるものについて固有な経験と云うか伝統を持っている。魔的なものを描いても、無神論者とは比較にならないほど深入りすることが出来るだろう。同時期の『共生空間』(1973)などの短編集はそうした感心に貫かれている。しかし一面、西洋的な美意識とは異質の美学的態度に生きたかの観がある高橋和己の生きざまに対して、本質的にかかわる言説がなされていない、と云うのは不思議なことである。わたしなどから見れば宗教的信条はともかく、和己は十字架上で矢に射抜かれた聖セバスチャンに酷似していると云うのに!
 『怒りの子』(1985)は、小説が言語芸術であると解する限り、高橋たか子が達成した最高の傑作である。京都弁と云う、京都生まれの彼女にしてなし得る最高の日本語を、自家薬籠中のものとして「言語の壁」について語る、と云う言語芸術の奇跡が成し遂げられている。ごく平凡な専門学校で料理とビジネスを学ぶ平凡な少女の内に如何いして常軌を逸した狂気が孕まれ、空想が妄想として野放図のものとして現象的世界としてのこの世に跋扈すのを許したか?言葉が!、知識が!、教養が!、ものの考え方が、それら全てが!、言語の壁としてこの世の人間関係の一切から隔てるとき、言語の壁の内側では生きてあることが留める術もないほどに、決定的に、狂気の世界に変貌する。
 人間は誰しも、言葉を通してしか生きえない。言葉を通してこの世に意味文節を与え、意味文節とは蚕の繭のようなものだから、それは手段であるように見えながらそれなしには生存それ自体が不可能になる、本質的なものなのである。その命と同体であるようなものの習得が、同時にこの世を生き難い狂気の世界にも変貌させる、言語や観念の怖ろしさについてたか子は初めて直面したかのごとくである。
 言語芸術家としての高橋たか子は、宗教者としての彼女よりも卓越していたのだと思う。もし言語を宗教家として、もかかる明察の光の元に観照しえていたならば、あれほど彼女にとって固有だとも思われた、魔的なものも無意識的な世界も、違った様相の元に現れたのだと思う。無意識的なものを即自的に悪なるものととらえ、そこから罪概念を引き出すことが彼女の在り方であったのだから、キリスト教的な回心の世界が素直に帰結したとは思えないのである。
 要は、聖なるものの世界と悪なるものが見分け難い形で、似ている、形而上的な世界では相似形になっている、と云う点なのである。悪なるものの、いっけん構造的な一致を手掛かりに、もしかして聖なるものの世界に別様にも近づけるのかもしれない、そうしたやや病的でもあれば恣意的でもあった、観念的な冒険であったと云うような気がするのだが。魔界は、彼女にとって、戦前・戦中・戦後を通じて告発する心理的な定点、膨大なこの世的な事象と拮抗するための、抗い得る梃子の原理のようなものであった。
 「狭き門」がもたらす魔界の誘惑は、ジッドの頃と少しも変わらないのである。神のペルソナがおぼろげな明察の光の中に照らしだされ、闇に仄かに浮かびあがるその様相が、相互に変換する光の動性によって刻々と変化する陰りの部分では、魔的なものを告知し、青白きその呪われた塑像を浮き彫りにする、イエスも荒野で直面した、戦慄すべき人類の時刻である。魔的なものとの遭遇を、単に「悪魔よ去れ!」と命令し一個の言説とするのか、それとも魔的なものとの対峙を通してしか聖なるものを告示する時刻は到来しないと考えるのか、二千年の昔にペテロが聴いた暁時を告げる闇の深さは遠い。

”残酷でない人が、本当に優しくありえようか”(たか子)